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【裸の大将】 日向伊東氏を語ろう 【放浪記】

1 :人間七七四年:2008/05/10(土) 03:43:09 ID:yJeYvXS1
何のかんの言われながら明治維新まで大名だった日向伊東氏を語りましょう。
三村氏のスレじゃないけど、隠れファンもいるでしょ?

2 :人間七七四年:2008/05/10(土) 04:13:35 ID:fY4hhdE+


宮崎県人です。

3 :人間七七四年:2008/05/10(土) 14:50:53 ID:9r0rCkrC

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4 :人間七七四年:2008/05/10(土) 20:58:28 ID:zYMrVDfO
伊東義祐→祐兵ってのは、凄い人生だと思う。

宮崎平野一帯の支配者→飫肥を占領して日向のほぼ全域→島津に敗れ親子で大友の居候
→大友没落後はただの浪人→義祐客死→祐兵は秀吉に仕官→本能寺後、天下統一の過程を経験
→飫肥藩主

だもの。戦国秀久なみの浮沈劇じゃないだろうか。

5 :人間七七四年:2008/05/10(土) 21:57:08 ID:wal7DjjT
語る程の人物じゃないだろ。
オマエラ時間を浪費するなよ。

6 :宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2008/05/10(土) 22:21:15 ID:3vLWI4MY
日向四十八城の詳細が良く分からない

7 :人間七七四年:2008/05/11(日) 00:03:50 ID:vWVv4shl
長くなるが

  佐土原城 伊東三位入道義祐、隠居後は佐土原摂津守
  都於郡城 伊東左京大夫義益
  三納城 飯田肥前守祐恵
  穂北城 長倉藤七(改民部少輔、子も藤七)
  富田城 湯地五郎九郎(改志摩介)
  高城城 野村蔵人佐
  財部城 落合民部少輔兼呑(若名藤九郎、子も藤九郎)
  那珂城 郡司弥六左衛門尉(今湯地出雲神、津宮左馬助)
  宮崎城 肥田木勘解由左衛門尉(今長嶺紀伊守、肥田木越前守)

  曾井城 八代民部左衛門尉(改下野守)
  清武城 長倉伴九郎、上別府宮内少輔
  紫波州崎城 川崎上総守(今息和泉守)
  田野城 長倉河内守(今息宮内大夫)
  倉岡城 野村隠岐守(今山城守)
  石塚城 平賀刑部少輔
  穆佐城 落合兵部少輔
  木脇城 福永民部四郎
  本庄城 河崎兵部丞
  八代城 伊東新三郎(改新助隠岐守息)
  守永城 内田四郎左衛門尉
  綾城 佐土原遠江守
  飯田城 河崎治部大輔
  内山城 野村刑部少輔
  染野切寄 染野志摩介
  紙屋城 米良主税助

8 :人間七七四年:2008/05/11(日) 00:04:26 ID:vWVv4shl
  野尻城 福永丹波守
  高原城 福永源左衛門尉 (淡路息)
  戸崎城 肥田木四郎左衛門尉
  三ツ山城 平良彦十郎(改遠江守、子も彦十郎)
  那佐木城 肥田木三郎兵衛
  野久尾城 米良筑後守(筑後守死後新納伊豆守)
  須木城 米良長門守(若名右馬助)
  新納石城 長友源二郎
  塩見城 右松四郎左衛門尉
  門川城 米良四郎右衛門尉
  日知屋城 福永新十郎(氏本駿河守)
  山陰城 米良喜内
  坪屋城 米良休助
  田代三方領主 松尾下総守、篦尾彦三郎、俣江主税助
  水清谷領主 奈須九右衛門尉
  入下領主 入下弥四郎

  神門三方領主 小崎右近将監、田爪、借屋
  高智尾領主 三躰惟政(三田井惟政)
  雄八重領主 米良分左衛門尉
  平野領主 米良民部少輔
  飫肥本城 伊東祐兵 (地頭上別府常陸守、福永宮内少輔)
  酒谷城 長倉淡路守
  目井城 河崎駿河守
  瀬平城 上別府常陸守

48あるかな?

9 :人間七七四年:2008/05/11(日) 00:06:10 ID:vWVv4shl
飫肥城知行割
城主 伊東祐兵
今城 伊東相模守祐梁   (三〇町)
松尾 木脇越前守祐守   (二〇町)
その他 佐土原讃岐守     (一〇町)
稲津因幡守重信   (九町)
長倉監物        (六町)
野村剣介         (六町)
上別府狩野介      (六町)
湯地刑部少輔      (六町)
落合藤七         (七町)
荒武又兵衛尉      (六町)
河崎紀伊守      (六町)
壱岐右近丞      (六町)
福永与八郎      (六町)
酒谷地頭 長倉淡路守
同後見 落合但馬守(六町)
長倉備前守(六町)
目井城 河崎駿河守祐長

10 :人間七七四年:2008/05/11(日) 00:50:17 ID:7vncE2I8
伊東氏といっしょに関東から日向の国に来たと言われている家系の俺が着ましたよ。
勿論、滅亡の際は見限ったようで、江戸時代は郷士だったようです。

11 :人間七七四年:2008/05/11(日) 01:07:07 ID:vWVv4shl
>>10
長倉、稲津、落合、湯地、河崎、宮田、福永・・・のどれかですな。
うちも同じ東国系家臣で、帰参組でした。

12 :人間七七四年:2008/05/11(日) 23:14:44 ID:6JO1azsy
稲津といえば稲津掃部助
関ヶ原の合戦後、主家に滅ぼされたのはやはり口封じだったのだろうか・・・

福永氏は伊東義祐の母の実家でしたっけ

13 :宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2008/05/12(月) 00:30:26 ID:fqVe3RvZ
>>7-9
本当に乙です
ありがとうございます

これでやっと分かった

14 :人間七七四年:2008/05/12(月) 15:02:40 ID:nZ3IXb3i
しょ正三位はぐっぐっ軍隊で言うと少将くらいなのかな?

15 :人間七七四年:2008/05/12(月) 23:05:42 ID:XY/iiPZT
よく三万貫も献上したもんだ。堺の町も嫌がった大金なのに。

しかし佐土原を始め日向ってそんなに栄えてたのかな?
重税に苦しんだ民衆なんて記録なんてないのだろうか。

16 :人間七七四年:2008/05/12(月) 23:21:10 ID:dXkcQqVQ
伊東さんの先祖が作った稲荷山東林寺が菩提寺のおいらが通過しますよ

17 :人間七七四年:2008/05/13(火) 01:11:40 ID:umwjMoIp
祐親の墓があるんだっけ?

>>15
数字には誇張もあるでしょ。
まあ、政治批判の落とし文に「近頃は佐土原の役人が多過ぎる」と書いてあるぐらいだから
尹祐の代に比べて経済が大きく変わっていたのは間違いないだろうけど。

18 :人間七七四年:2008/05/14(水) 14:52:24 ID:49MI4MuU
何やって銭金蓄えたんだろ
やっぱり倭寇?

19 :人間七七四年:2008/05/15(木) 00:31:12 ID:lH3/6v9+
>>17
伊東祐親の墓はちょっとはなれたところ、谷を挟んだ向こう側ってかんじかな。
もともと曽我兄弟の父河津三郎祐泰のために作られた寺だそうで河津三郎の墓と曽我十郎、五郎の首塚があります。 

20 :人間七七四年:2008/05/15(木) 10:14:34 ID:cTYZYg3j
>>19
遠い親戚同士で葬られてるのね

21 :人間七七四年:2008/05/15(木) 22:17:46 ID:lH3/6v9+
>>19
曽我兄弟=曽我十郎、五郎



22 :人間七七四年:2008/05/16(金) 23:41:53 ID:e3b/quUS
佐土原近辺には曾我兄弟の墓と言われる五輪塔がいくつもある。

伊東の支配を嫌った領民が曾我兄弟伝説に合わせたのかな?
新たに入った島津が伊東の評判落とすために噂流したのかな?


23 :人間七七四年:2008/05/19(月) 22:25:51 ID:pNEnj/Uy
>>22
兄は頼朝んところで斬られているし、弟も翌日打ち首だから日向にはいっていないんだけどね。
ええと、曽我兄弟(おかんが曽我さんの後妻になってた)に討たれた工藤祐経の子供の伊東祐時が日向の地頭職になって
一族を展開させたから、まぁ曽我兄弟の存在は対伊東戦略に有効だったかもしれませんね。
ただ、頼朝の陣屋に襲い掛かるという謎の行動(兄弟の後援者の北条時政の陰謀説)もあったわけで、
頼朝の後胤説もある島津氏がよいしょするのもなんだかな感じですね。

曽我兄弟は工藤祐経の叔父の伊東祐親の子河津三郎の子供達
所領争いで工藤祐経が伊東祐親を襲ったときに河津三郎が殺された。
相撲の河津掛けは河津三郎が最初にやらかしたとされる。



24 :人間七七四年:2008/05/20(火) 00:34:34 ID:Yg6Enmtl
よろよろながらも明治維新まで完走したのはたいしたものだ。

25 :人間七七四年:2008/05/20(火) 00:51:04 ID:Af6AYqyI
しかし、よろよろ加減では相良には負けるな
相良に比べたら伊東なんて遙かにしっかりしてる

26 :人間七七四年:2008/05/20(火) 08:12:34 ID:j9AcE/Nl
小悪党の家系だよな。中ボス的というか

27 :人間七七四年:2008/05/20(火) 10:24:30 ID:nlK/QNJr
鎌倉初期から明治維新まで完走できた大名は

伊東・佐竹・島津・相馬

あとはどこだっけ?

28 :人間七七四年:2008/05/20(火) 12:44:27 ID:+FQMawaB
九州だと地味だが地方豪族から武家化した松浦氏
鎌倉幕府から肥前有馬庄の地頭職を与えられた有馬氏とか
対馬の宗氏は実質的に鎌倉時代から対馬を支配下に置いたが
対外的に大名と認められるのは対馬守護であった小弐氏滅亡後だから外した

29 :人間七七四年:2008/05/20(火) 12:47:28 ID:Af6AYqyI
>>28
肥前有馬氏も途中で転封+養子相続で血統断絶だから微妙

30 :人間七七四年:2008/05/20(火) 23:14:14 ID:20P0/qaZ
江戸時代の飫肥藩は材木商が大金もって城下町はかなり発展したからな。
特に何の特産品もなく、港も商業も発展しなかった佐土原藩は借金まみれだった。


太閤国替え万歳だな。

31 :人間七七四年:2008/05/20(火) 23:34:46 ID:Af6AYqyI
いやいや
伊東は元々国を追われて秀吉の元で与力奉公していたのが新規取り立てされたという成り行きにですから。
ちなみに当初は飫肥だけしかもらえなかったことに対して伊東氏は不満たらたらだったらしい。
この不満が関ヶ原の合戦の時の稲津掃部助の暴走?や100年近くも訴訟を繰り返した「牛之峠」争論に
つながっていく。

佐土原は既に島津中務大輔家久領だったのが家久急死により、その息子の豊久(当時忠豊)に
そのまま相続させてやったという経緯。

32 :人間七七四年:2008/05/20(火) 23:52:24 ID:Af6AYqyI
誤 成り行きにですから
正 成り行きですから

33 :人間七七四年:2008/05/21(水) 23:58:35 ID:HEJZ35jc
初めは曽井に封じられる所だったのを飫肥にしてもらったんじゃなかった?

34 :人間七七四年:2008/05/24(土) 22:00:34 ID:QG4wdF2t
不憫だな

35 :人間七七四年:2008/05/26(月) 17:17:46 ID:3v60y5tC
伊東氏で検索したら案外色々なサイトが見つかった
この規模の大名としては史料が豊富な方なのかね

36 :人間七七四年:2008/05/26(月) 19:10:12 ID:FaJuXvdd
鎌倉初期には期待されたが
その後、スローダウン。

しかし明治維新までともかく完走した。


巨人の堀内前監督の選手生活のような盛衰。

37 :人間七七四年:2008/05/26(月) 22:22:51 ID:WNQYJvgD
堀内って中期にファンの恨みを買うようなことしたっけ?

38 :人間七七四年:2008/05/27(火) 09:55:36 ID:XexN8sNA
悪太郎

39 :人間七七四年:2008/05/27(火) 09:57:04 ID:XexN8sNA
ファンの恨みは買っていないが
首脳陣やONのNから怒鳴られることはあったとされている。


>堀内(晩年はエースナンバー18をつけて敗戦処理登板)

40 :人間七七四年:2008/05/27(火) 17:17:37 ID:cF4xg+3b
じゃあ今の堀内は晩年の伊東義祐みたいなもんか。
新規取り立てはあるのだろうか。

41 :人間七七四年:2008/05/27(火) 17:44:04 ID:bYGH+XCP
ないと思う。



42 :人間七七四年:2008/05/28(水) 22:49:42 ID:D3rn+v+t
伊東祐兵を主人公にした小説って、そこそこ面白いんじゃないかと思うの

43 :人間七七四年:2008/05/29(木) 04:47:52 ID:mZYPZhCL
伊東氏より勢いがあった和田や三浦が滅んだのを尻目に
細々ながらも維新まで続いたわけだから、ある意味勝ち組。

44 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 19:19:52 ID:bgyp0P/n
飫肥の街並みはなかなか素晴らしいぞぉ。

城は途中で学校にナットルヶな。

45 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 01:40:42 ID:+MgGHom9
>>44
中世山城としての飫肥城は数倍の広さがあったって聞いたけど、具体的にはどこまで?
酒谷川が外堀?

46 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 13:55:01 ID:W7U5EVex
        Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
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47 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/02(月) 23:44:45 ID:Ka66bdNH
>>45
いんや。現在もある本丸の背後に無数の曲輪が林立していたようだ。
武家屋敷のある辺りや、東側の微高地も、外郭を形成した曲輪だったと考えられている。

48 :人間七七四年:2008/06/10(火) 13:51:34 ID:ky0kIVe3
「日向記」以外で、戦国期の伊東の史料で手に入る本ってないでしょうか?


49 :人間七七四年:2008/06/10(火) 15:59:39 ID:aWEMUCZX
日向伊東氏中心の史料となると、それしかないと思われ。
あと「伊東氏大系図」もあるが、これは入手がめんどくさい。

50 :sage:2008/06/10(火) 16:24:01 ID:ky0kIVe3
>>49
ありがとうございます。やはり、そんなもんなんですか。
日向記以上の内容を得ようとしたら、敵対していた島津の史料からちょこっと
書かれてる部分を探すとかしかないんでしょうね。

51 :人間七七四年:2008/06/13(金) 00:15:10 ID:KwqIY5oN
先日、祐清の小説があるというのでどんな題名か教えてもらったら「犬神家の一族」だったorz

52 :人間七七四年:2008/06/13(金) 08:16:24 ID:vo5r9Rpi
スケキヨ覆面をかぶって戦場に出れば敵兵はびびると思うが。

53 :人間七七四年:2008/06/13(金) 08:54:59 ID:x2aIdiG2
戦場でも肖像画のような黒頭巾を被ってたんだろうか

54 :人間七七四年:2008/06/13(金) 11:36:43 ID:4gw7x4Hp
入浴の際には必ず湯船で逆立ちして両足を湯から出していたらしい

55 :人間七七四年:2008/06/13(金) 13:11:01 ID:EHpX+reL
敵兵の首を取ったらそれを菊人形にしたらしい。

56 :人間七七四年:2008/06/13(金) 18:20:48 ID:xT4FUsfc
伊東氏のウワサスレはここですか

57 :バロン曽志崎:2008/06/13(金) 20:36:33 ID:D4TC1vQt
>>53
大阪城天守閣寄託の「伊東義祐像」の事でしたら、あの肖像画は実際は、
上杉謙信の肖像画らしいです。
そっくりな図案の謙信像が京都大学総合博物館にあるとか。

58 :人間七七四年:2008/06/13(金) 22:06:59 ID:T/eLnDHc
伊東氏の城下には「三つ首塔」が建っていたらしい。


ところで伊東氏の現在の当主はどこでなにをしているのやら?

59 :人間七七四年:2008/06/13(金) 22:13:05 ID:z/Gmkl9u
結構前に地元のテレビに出てた
普通の爺ちゃんだった

60 :人間七七四年:2008/06/14(土) 08:18:38 ID:BuO8nckk
>>57
本物と伝えられる肖像画が大坂に一枚あったけど、戦災で焼けちゃったらしい。
写真が一枚だけ残っている。息子祐兵に似ているとか。

61 :人間七七四年:2008/06/14(土) 09:07:57 ID:prgIkjF+
大友伊東時代に延岡治めてたのダレ?

62 :人間七七四年:2008/06/14(土) 13:07:47 ID:BuO8nckk
県土持氏。豊後をかつて治めていた佐伯氏と仲が良かった。
大友の日向南進時に撃退された。

63 :人間七七四年:2008/06/14(土) 13:12:37 ID:vUwp5HA5
佐土原は日向の小京都って言われてたんだよね。
今でも面影あるの?いい寺とかある?

64 :人間七七四年:2008/06/14(土) 15:14:01 ID:BuO8nckk
突出して歴史があるのは大光寺。
続いて崇称寺、蓮光寺、吉祥寺、高月院あたりかな。数は多いが、新しいものが多い。
ちなみに前島津が建立した天昌寺始め、今はなき寺も多い。

65 :人間七七四年:2008/06/14(土) 17:15:06 ID:Kx5iihOo
>>60
その写真見てみたいな。
何かの本に所収されていますか?

66 :人間七七四年:2008/06/14(土) 17:28:15 ID:WlxvqIgI
>>63
ttp://shogo33333.ninja-web.net/
ここに佐土原の写真があるよ

67 :人間七七四年:2008/06/14(土) 19:16:45 ID:BuO8nckk
義祐が客死にしたところの市が編纂した史書にあるらすい。

ちなみに、全国初の市史だったらしい。

68 :人間七七四年:2008/06/14(土) 19:41:47 ID:KU/Sdksq
そうなのか

69 :人間七七四年:2008/06/15(日) 01:29:26 ID:uccPXNPf
>>67
t楠

・・・といいたいのだが、
堺市史って何巻もある上にそれは戦前に出た物(だからおそらく旧字体)
更に昭和になって出た続刊、それも何巻もあるらしい orz
堺市HPで公開している資料目録に何か載ってないかと思ったが見つからなかった
http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_kakusyu/kyo_ka_shishi.htm

70 :人間七七四年:2008/06/15(日) 01:39:25 ID:Q90tzYRn
旧字体のなにがわるい( ・`ω・´)

71 :人間七七四年:2008/06/15(日) 04:08:17 ID:QJbgrGJ1
スカイネットアジア航空の新社長は伊東氏
ただ出身が岐阜なんだと、日向か伊豆なら繋がり感じたんだけどなぁ

72 :人間七七四年:2008/06/15(日) 16:28:30 ID:uccPXNPf
>>70
悪くはないけど
アフォの私には読みこなすのが大変でw

>>71
松坂屋創始者と同起源の可能性があるかも

73 :人間七七四年:2008/06/15(日) 22:33:32 ID:G/vT6ReK
北条家臣にいる伊東氏は遠い親戚なのかな
確か伊豆に領地持ってたけど

74 :人間七七四年:2008/06/16(月) 00:25:33 ID:2sT2Q+3s
つか戦国時代に活躍するほとんどの伊東氏が藤原為憲を祖とする同流じゃないか?
いつ分岐したのかはそれぞれで違うだろうし、もちろん仮冒もあるだろうが。


75 :人間七七四年:2008/06/22(日) 16:03:26 ID:tv+A4PWp
所さんの「笑ってコラえて」で門川町やってるあげ
米良祐次の領地ですよ

76 :人間七七四年:2008/06/25(水) 06:52:52 ID:SRvIygWr
伊東ってあのほっそい日南海岸を通って飫肥に攻め込んでたの?

77 :人間七七四年:2008/06/28(土) 14:22:25 ID:Scawo+7H
そう言えばどこから攻め込んだんだろう?
北郷の山岳ルートは、今では道があるけど、戦前までは細い山道しかなかったしなあ。
やはり海沿いだろうね。

78 :人間七七四年:2008/07/06(日) 01:59:45 ID:6JJYYefw
守りやすい土地なんだな

79 :人間七七四年:2008/07/12(土) 00:24:30 ID:imTg0EFp
逆に言うと、下向した時点でマイナー武将決定だったわけで。

平野が広いようでそうでもなく、大した産業もなく…。
国力も伸び悩んで大変だったろうな。

80 :人間七七四年:2008/07/12(土) 00:35:10 ID:1LXiI71w
親族内の内輪もめも・・・
あ、国力が伸び悩んだから少ない物の取り合いになって内輪もめが激しくなったのか?
うーん・・・

このスレのタイトルになっている「放浪する裸の大将」こと伊東義祐もどろどろの内輪もめを制して当主に
本当は坊主になってそのまま歴史の彼方に消え去る宿命だったはずなのに。

81 :人間七七四年:2008/07/20(日) 15:53:30 ID:vLteCSpB
義祐以前には伊東の内紛って無くないか?

82 :findoll:2008/07/22(火) 19:17:27 ID:YgZJcNuJ
初めましてm(__)m
突然ですが、福永伊豆守祐炳と福永丹波守ってどういう関係なんですか?

83 :人間七七四年:2008/07/28(月) 19:58:37 ID:T6VWegbC
知らんけど、丹波守の寝返りで諸県の諸城が一気に崩れたんだから
血縁的にもそれほど遠くは無いだろね。
しかし福永のその後が気になる。薩摩藩士になれたのかな。

84 :人間七七四年:2008/08/02(土) 01:32:15 ID:d6M/AT4X
戦国時代の島津氏家臣人名辞典『本藩人物志』
島津氏家臣姓名辞典『諸家大概』
両本に「福永氏」や福永姓の記載は見つからないね。
伊東氏に改姓した様子もないし。

さっと見ただけなので見落としあったらスマソ

85 :人間七七四年:2008/08/02(土) 16:36:30 ID:fbYOv0Gq
『「さつま」歴史人名集』という一、二行程度の記述しかない本には、
福永丹波の項目の中に”子孫は加治木”とある。
ゆかりのなさそうな加治木姓になったとは思われないから、薩摩藩士になって
九州征伐で島津が厳封された後とかに薩摩の加治木に移り住んだんじゃないかと。


86 :人間七七四年:2008/08/05(火) 12:09:20 ID:yr18fhHu
「息子の元服を無視されて謀反した」という説があるくらいで、嫡流の可能性は高いでしょう。

87 :人間七七四年:2008/08/21(木) 13:51:01 ID:emoFWYK6
義祐のキャラ立ちは異常

88 :人間七七四年:2008/08/24(日) 02:33:39 ID:aYeawtdB
伊東義祐3000vs島津義弘300

89 :人間七七四年:2008/08/24(日) 02:56:58 ID:aYeawtdB
1572木崎原の戦い
http://jp.youtube.com/watch?v=O1yAMNpioyY

90 :人間七七四年:2008/08/24(日) 12:37:32 ID:LqhPVWjN
伊東義祐vs島津義弘
戦国武将としても人間としても全然勝負になってない。
ように見えるんですけど。

91 :人間七七四年:2008/08/24(日) 14:05:18 ID:9xGUs6rt
西の福永氏だけじゃなく、南西の長倉氏も義祐とは仲が悪くてですね。

しかし何でこうもいざこざが起きたのだろう。
義祐に人心掌握術が欠けていたのか、
日向の地にも下克上が浸透したのか。

92 :人間七七四年:2008/08/24(日) 17:39:36 ID:kfBm9WVH
>>91
やはり嫡男が死んでからの放蕩ぶりと散財ぶりや、苦言を呈した者を
遠ざけたり、家臣を小馬鹿にしたり(これは落合民部少輔しか記録ないけど)、
伊東祐松の専横を咎めなかったりとそういう主君じゃねぇ・・・。

93 :人間七七四年:2008/08/25(月) 00:08:09 ID:0wWR5h9Z
そもそも日向をほぼ全域支配してるのに3000撃破されたぐらいで滅亡ってwww
たいした奴じゃないよ
だから島津も300ぐらいあったら大丈夫って思ったんだろ
伊東にとっちゃ3000は全兵力だったんだろう

94 :人間七七四年:2008/08/25(月) 02:42:51 ID:5hV3NjwA
ほぼ日向全域支配して動員可能兵力が3000ってことはないような…

95 :人間七七四年:2008/08/25(月) 06:16:54 ID:kBktui+4
動員兵力の問題じゃないな。祐安、祐立の時代には西都市だけで鹿児島県と戦って勝ってんだから。

96 :人間七七四年:2008/08/25(月) 10:25:28 ID:FanWd3CM
一応、飫肥での戦いでは20000を動員したとはなってるけどね。
無論、どこまで真実かは?だけど。

3000撃破されてその数自体は多く思えないけど、討ち死にした者の
名簿の中に、城主とか地頭、その嫡子の名前がたくさん出てくる。
4、5年間では その立て直しができなかったと考えるしかないかなぁ。


97 :人間七七四年:2008/08/30(土) 01:32:46 ID:Ctlf2bPN
木崎原の合戦では、西都から佐土原の武家の跡取りはほぼ全滅したって話だからなあ。
当の伊東家もそうなったし。
若兵で編成されたんだろうね。

義益とか、勝ち戦の経験のあるものがいれば、木崎原は状況変わったかも知れんな。

98 :人間七七四年:2008/08/31(日) 16:56:19 ID:/XErL166
木崎原は義弘の手の中で踊らされた時点でほぼ負け決定だったと思う。
飯野城の先の加久藤城を攻めるために、前日の夜から行軍して疲れた中を
早朝から城攻め、しかも騙されて断崖絶壁の入口を攻撃してるんだからね。

相良軍が来ることも、間者が飯野でとっ捕まってるし、盲僧を送り込まれて
情報筒抜けだったわけだし。

ただ、城攻めを若兵じゃなく、熟練の者に任せてたら違う展開はあったかも。
加久藤城は落とせてたかもしれないし、少なくとも池島川で水浴びは
なかったろうね。

99 :人間七七四年:2008/08/31(日) 18:55:06 ID:G6JvwSBI
>池島川で水浴び
いくら暑かったとはいえ、これは
「やーいやーい、こっちは余裕だぞーい」
と、飯野城勢や加久藤城勢を挑発した、つもりだったんだろうか・・・

100 :人間七七四年:2008/08/31(日) 21:29:10 ID:s2lEwuif
まさか。相手から逃げ切ったと見て、一水入れて仕切り直ししようとしたんだよ。

思い切り油断してたんだろうね。



101 :人間七七四年:2008/09/04(木) 02:00:05 ID:fC/ZvkMD
74 名前:人間七七四年 投稿日:2008/09/03(水) 14:14:59 ID:oWH8X3Xu
これは従来、賞賛されて来た出来事だが、女は恐いという話。

秀吉の九州仕置きの時、大友の鶴崎城攻防戦。
城代は吉岡紀増の妻・妙林尼。
攻め手は島津軍・伊集院久宣、野村文綱、白浜重政。
女とあなどって散々痛めつけられた島津が本気を出してついに落城となった。
妙林尼と侍女たちは城下で囚われの身となったが、折にふれ島津の兵を招いては、
侍女達に酌をさせ、舞を舞い、歌を歌っておおいに笑いあった。
(今で言う合コンですな)
そしていよいよ秀吉が九州上陸という知らせが入り、島津軍は薩摩に帰ることになった。
妙林尼達は「いっしょに連れて行って欲しい」と懇願した。
兵達は、馬よ輿よと騒ぎ立て喜んだ。
ついに出立の日、妙林尼達は、門出の祝いとして将兵全員に酒を配りしたたかに酔わせた。
そして、途中、手配していた手兵に襲撃させたのである。
伊集院と白浜は討ち死に、野村も深手を負い、指揮官を失った兵達は敗走していった。

大友宗麟は「尼の身として稀代の忠節古今の絶類なり」と称えた。
秀吉も是非会って恩賞を取らせたいといったが固辞して受け取らなかった。

102 :人間七七四年:2008/09/05(金) 23:16:53 ID:lYmYuhcJ
>>101
>秀吉も是非会って恩賞を取らせたいといったが固辞して受け取らなかった。
身の危険を感じたんだろうよ。だって秀吉だもの。

103 :人間七七四年:2008/09/22(月) 00:47:29 ID:LLZwT3m0
>>95
木崎原戦の際の動員力を知りたいですね。
野尻や清武や日向辺りから兵をどうして動員できなかったのか。

年齢構成や若い大将である点など、この合戦自体を甘く見たのか、
それとも国人クラスから兵を借りられないほど家臣団が崩れつつあったのか。

104 :人間七七四年:2008/09/22(月) 00:48:51 ID:LLZwT3m0
えい、せっかくだから上げてやる!

105 :人間七七四年:2008/10/02(木) 17:51:07 ID:xtMss2Q8
義祐が飫肥城攻略に成功したのはいつ?
その経緯がわかる本ってありますか?


106 :人間七七四年:2008/10/05(日) 00:55:44 ID:pVqxlCAd
日向記になるのかな。あと、宮崎県史とか。
でも、どっから誰が攻めて…のような書き方はなかったと記憶している。

107 :人間七七四年:2008/10/05(日) 02:21:17 ID:k9IjgyMh
>>105
ttp://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/hyuuga/siro/obiwar.htm
ここはどうだろう

108 :105:2008/10/08(水) 22:19:05 ID:3bA8WYv+
>>106
ありがとうございます。買ってみます。

>>107
地図もあってすごくわかりやすいですね。
こういうのが見たいと思ってました。ありがとうございました。

109 :人間七七四年:2008/10/13(月) 13:14:53 ID:ZvZ3q4dK
串間ってどんなトコ?

110 :人間七七四年:2008/10/14(火) 00:16:35 ID:GrI+PAI3
猿と馬がおる。城はもう壊された。

111 :人間七七四年:2008/10/25(土) 14:54:06 ID:rwPvZDJ9
>>60
>>67
気になって『堺市史史料目録』も入手してみたが
・・・それらしい物は掲載されてなかったorz

112 :人間七七四年:2008/10/25(土) 17:01:26 ID:fWV+qKu6
>>27
微妙だが吉川と相良も。
この二つも静岡県発祥だが、静岡県勢は鎌倉から江戸まで全時代を通じて多いな。
>>79
いやいやあまり関係ない。
現在の静岡県域の勢力はかなりの確率で西へ移動か北条の被官になってるからね。
で空いたとこへは伊達等の東北や他地方の勢力を移動させてる。
残ったとこで万石取りになったのは岡部、久野、井伊だから三対三か。
途中でへたれたが高槻入江氏も含めたら移動組の方が多いな。
大楠公も駿河発祥説があるし。

113 :人間七七四年:2008/10/28(火) 12:05:21 ID:g/Al61t/
飫肥を巡る合戦記は結構面白いと思う
島津豊州家、北郷氏、新納氏やら

114 :人間七七四年:2008/10/30(木) 00:33:20 ID:nOeEEH+X
懲りずに『堺市史』資料編を取り寄せてみたが
ヤパーリ「伊東義祐像」?の写真は載ってなかった
今度は本編をローラーしてみる予定(`・ω・´)

ところで
その資料編の2巻?(1巻だったかも?)にあの茶人・武野紹鴎家の系図抜粋が所収されているのだが
武野紹鴎の項を見ると「母は伊東○○(失念)祐隆女」とか書いてあった。

伊東家が島津家に日向から追われ、更に大友家からも追い出されるようにして九州を去り、
その後、遠縁の伊東氏(羽柴秀吉の与力だった伊東長実)の縁故で秀吉に拾われるわけだが
何故か伊東一家は秀吉の本拠である長浜城下ではなく堺に住んでいた。
もしかしたら、武野紹鴎も伊東一族の血縁で、それを頼って堺に住み着いたのかもしれん、
と思った。


115 :人間七七四年:2008/10/30(木) 16:07:08 ID:iXVUDD30
マンショ

116 :114:2008/10/31(金) 23:00:35 ID:WXfSqTnf
速攻で『堺市史』本編4冊が最寄りの図書館に来たのでサーチして参りました。

・・・やはりこちらに載っておりました。
背表紙は「第7巻別冊」というタイトルになっておりました。
この「人物編」の所に2ぺーじ程度で説明がありまして
不 鮮 明 な 写 真 ではありますが、
慈光寺にあったという義祐の僧体の肖像画の写真が掲載されています。

ちなみにこの慈光寺というのはその当時から浄土真宗らすぃ。




117 :人間七七四年:2008/11/01(土) 22:04:30 ID:pe74M4fm
>>116

不鮮明なのは残念だなー

118 :人間七七四年:2008/11/02(日) 22:34:14 ID:72DOaxYp
>>116
乙。

その話書いたの俺だが、伝聞だったので、どれに載っているかまでは知らなかった。
あやふやな情報で苦労させたようで悪かった。

119 :人間七七四年:2008/11/05(水) 19:29:06 ID:cnBAgKYY
夏に日南の小村記念館でやった伊東×豊州家の催しで、噂の不鮮明写真を見ました。
足利義満系?の丸い坊さんでしたね。
にしても従来の「伊東義祐像」が謙信だったなんて、そっちの方がショックかも・・・。

120 :人間七七四年:2008/11/14(金) 20:57:14 ID:UrgmCLsv
日向48城の大将として君臨し、命からがら豊後落ち。客死。佑兵は、九州征伐、日向路の道案内で天下の軍勢とともに帰還!    明治まで存続!寝るときは薩摩にあしむけたり、大柄な女性を好んで室にする、執念。 
そのわりには西南戦で薩摩についた、ある種のブレ。充実をみた教育。
今も残る武家屋敷。   
決してメジャーにはなれないにしても、なんというかいぶし銀の渋みを感じます。 
それに負けた相手が相手だし…


121 :人間七七四年:2008/11/15(土) 10:51:58 ID:Na4GsteN
だれか戦国伊東の興亡を書いてくれないかな?起は薩摩との興亡、承は日向48城の栄華、転は豊後落ちと上方流浪、結は念願の日向入り。 

こくばるりんに宣伝させ大河ドラマ化、もちろん知事も出演で大盛り上がり。 
飫肥にも観光客誘致!  九州の少京都と日南海岸のコラボ! 

主人公は佑兵!

意外と粘る宮崎人!!




122 :人間七七四年:2008/11/15(土) 12:22:46 ID:YTyaF0jN
>>121
っ吉永正春
 
しかし世の食いつきは悪そうだな

123 :人間七七四年:2008/11/15(土) 18:56:20 ID:7iytUo+A
>>121
>結は念願の日向入り。
朝鮮での戦いぶりや、関ヶ原での振る舞いはやっぱ駄目っすか。

伊東祐兵の生涯は浮沈の差が大きくてドラマには向いてそう。
大河と行かないまでも、四話シリーズの時代劇にはうってつけじゃないかな。

124 :人間七七四年:2008/11/15(土) 19:57:27 ID:/YtuQZoP
去年の山本勘助の番外編で小笠原長時なら見てもいいな
俳優はその人で

125 :人間七七四年:2008/11/16(日) 05:35:41 ID:W7lxKLLk
>>そうその浮沈の大きさがいいのよ!見せ場は上方の浜辺での父との涙の死別。険しい山越えの涙の豊後落ち。 
緒戦の勝利に油断しての木崎原での、心底楽しそうな水浴びと、その後の悲劇。            日向入りでの大歓喜。  
こくばるりんモード発動中の今しかチャンスはない。
しかし大河は無理があるかなぁ…

テーマは父と子の絆。  あきらめない根性。

126 :人間七七四年:2008/11/16(日) 12:27:23 ID:O52qHiz3
>>124
長時の
「まぁまぁ煽るな煽るな」
の名言が忘れられない。

127 :人間七七四年:2008/11/16(日) 21:29:18 ID:baxW4+tn
絆って言うか…父は公家思考が強かったからか挫折に弱そうだし。

むしろそうした父を乗り越え、一兵卒から這い上がった祐兵に魅力を感じる。
彼は、秀吉や子飼いの武将達の天下取りも見てきた。それもうまく描ければ、
結構面白い話になるんじゃないかと。

128 :人間七七四年:2008/11/17(月) 05:17:24 ID:gwyfkDvf
>>121
薩摩だったら海音寺潮五郎とか
今だったら桐野作人とか地元縁の作家がいるからいいよね〜

129 :人間七七四年:2008/11/17(月) 06:49:19 ID:iXE1XRUT
>>127秀吉やその他中央の武将たちとの絡みはたしかに大事だね。      ただ日向口は秀長で秀吉は肥後口てゆうのが、宮崎の哀しさだよね…
>>128 しかし今まで余多の歴史作家あるなかで、短篇にすらなってないとは… 絶句。 
しかし、だからこそ新鮮味もある。こくばるりんのブレーンにそうゆう視点があれば面白いんだけど…

130 :人間七七四年:2008/11/17(月) 07:38:06 ID:rUDKpYN6
伊東の短編なら松本清張の「三位入道」があるじゃろが

131 :人間七七四年:2008/11/18(火) 00:09:16 ID:Xh3jPRcI
あと犬神家の一族とか。

132 :人間七七四年:2008/11/18(火) 06:57:41 ID:pIP7m6WA
>>130 へぇ知らなかったです。落ちはどのあたりなんですか?

133 :人間七七四年:2008/11/20(木) 00:17:50 ID:yP8SOzzN
内容的にはほとんど紹介記事程度。

134 :人間七七四年:2008/11/23(日) 01:16:57 ID:n1QmeBzc
>>129
いやいや戸次川にしろ根白坂にしろ、しっかりした戦闘がありましたがな。
西回りは立花城でドラマがありましたが、肥後は話題性に欠けるし。

あれ?根白坂の時、祐兵さんて何してたんだっけ?
先導役だけで一軍までは任せられなかったのかな。

135 :人間七七四年:2008/11/28(金) 16:55:39 ID:zeU6GvBn
それは皮肉かい?!はて、なにしてたのかなぁ?でも色々地元ならではのアドバイスやらで働いたんだろう。でないと五万石もらえんだろう…


まぁしかし、島津も発祥は日向だからね。よそで成功した身内が戻ってきたような感じもある…     
そもそも薩摩、大隅は古くは日向だったしね…














































と負け惜しみしてみる

136 :人間七七四年:2008/12/05(金) 01:41:42 ID:loLWwcfy
実際はもっともらえる予定だったという話もどこかで読んだような・・・
でも豊臣政権内の派閥争いに巻き込まれて旧領相当の飫肥5万石に落ち着いてしまった。

祐兵は家族を抱えて放浪していたところを中国攻め中の豊臣氏にひらわれたという経緯から
豊臣秀長が特に目をかけていたらしい。
また、秀長は九州御動座の時の日向側攻撃総大将だったので、とくに祐兵を厚遇してやりたい!
という気持ちが強かったようだ。
ところが
・九州御動座で秀長が余りに目立ちすぎたのが、さすがの秀吉にも不満だった
・秀吉は日向を大友宗麟にやろうと勝手に考えていた(但し、宗麟断る→直後に病死でご破算に)
・日向全土を他大名に取られることをメンツに関わるとして恐れた島津氏が石田三成を使って秀吉に猛アタック

新興官僚派・石田三成を使った島津家の勝利
旧来家臣派の豊臣秀長側だった伊東家は目標の半分しか達成できなかった・・・

まあ、その結果、
島津家は石田三成に家中に介入されまくって、その後は統制乱れまくり
伊東家はこの時のリベンジを計ろうとして関ヶ原で東軍について活躍!・・・したのはいいけど、
やりすぎて後で家臣に泥をかぶってもらうことになり、結局領地も増えず
・・・というドロドロの結果に。

137 :人間七七四年:2008/12/05(金) 06:53:10 ID:VKsgP1S3
しかし大友の日向一国統治もみてみたかったような…

138 :人間七七四年:2008/12/07(日) 13:30:43 ID:hdfBpqzr
宗麟のままだったら神社仏閣が軒並み破壊されてたんだろうなw

139 :人間七七四年:2008/12/07(日) 23:34:16 ID:3w36MNiZ
で、バテレン追放令でソリーン改易、やっぱり再び小藩分立の道へ。

う〜むどうしても同じ道に戻るな。

140 :人間七七四年:2008/12/07(日) 23:53:25 ID:adCOfhrD
宗麟自身あまり体が丈夫な方じゃなかったから
日向を宗麟流にまとまる前に義統に代替わりしそう
義統では反バテレン系家臣や日向の地侍達を押さえ切れそうにないし
神社仏閣を壊しまくって領民の大友への不満も達してるだろうから伊東氏やその一党の巻き返し
領民が島津を誘い入れて大友を日向から追い出す様なシナリオ等色々考えられるね

141 :人間七七四年:2008/12/08(月) 07:04:18 ID:98HixFAm
しかし宗麟はなんで、秀吉からの日向一国加増をことわったんだろうね。やはり耳川がトラウマだったのかな?

142 :人間七七四年:2008/12/08(月) 13:59:57 ID:oWOawWl7
それこそ耳川の敗戦で初めて日本の神様を恐れるようになったのかもね・・・。
よりによって神道の根城みたいな土地で神社を壊しまくったわけで

143 :人間七七四年:2008/12/08(月) 19:21:18 ID:aIelrmLn
というよりそんだけやりたい放題やった土地なら
反大友の空気が強いからじゃないの

144 :人間七七四年:2008/12/11(木) 08:06:59 ID:8FBJM72k
なんせ大友軍は耳川への途次、神社仏閣をかたはしから壊して、道の悪いとこには仏像をおいて進軍したらしいからね。 

大分兵も躊躇したひともあったかもね。 

とくに延岡方面は土持戦、もあり徹底的にやられたらしく、多くの資料が焼かれて中世の歴史がほとんどわからんらしい。

耳川はマジに天罰かも知れないし、宗麟にもその意識があったかもね。 

耳川から豊後へ逃げ帰るときは県北方面のものからかなり襲撃されてるしね。 
もう日向は懲り懲りと…


145 :人間七七四年:2008/12/12(金) 10:43:19 ID:4QHjS464
島津、大友の大勢力、に対し県北は縣(延岡)の土持、高千穂の三田井、門川、塩見、山陰の三城衆が入り乱れ、それぞれがそれぞれの思惑で動いたからね。 
昔も延岡と日向門川はケンカしてたんだね。 


146 :人間七七四年:2008/12/12(金) 19:38:09 ID:4QHjS464
まぁしかし延岡勢はびっくりしたろうね。なんせ大分福岡熊本、愛媛の軍勢が当時の国内でも最大規模で攻めてきたんだから… 

負けたとはいえ勇敢に戦ったのは立派だ!

先鋒は宇佐あたりの兵だったらしい。 

それにしても貴重な郷土の歴史資料や文化財が失われたのは残念だ…



147 :人間七七四年:2008/12/12(金) 19:39:04 ID:4QHjS464
おまけに門川日向は大友に通じて南から攻めてくるし…

148 :人間七七四年:2008/12/13(土) 16:42:41 ID:tY2KGUeX
破棄された文化財は廃仏毀釈で更に倍!

149 :人間七七四年:2008/12/13(土) 17:52:59 ID:GwFSugfh
宮崎は廃仏毀釈が凄かったんだってね。

150 :人間七七四年:2008/12/15(月) 18:45:02 ID:UKMMKwGn
そうなの?知らなかった。やっぱ藩域で違うのかね?

151 :人間七七四年:2008/12/16(火) 21:36:56 ID:M5qgjTBv
廃仏毀釈の頃、徹底的に行われた鹿児島県に編入されたしね。

152 :人間七七四年:2008/12/17(水) 16:20:34 ID:7TIad9u3
そうだった。宮崎日々新聞の前身は日州独立新聞だしね!

153 :人間七七四年:2008/12/22(月) 19:05:42 ID:BMf0M5hj
耳川戦後、縣の土持が島津の配下に列したことにより、島津の南三州(薩摩、大隅、日向)の統一が実現した。 





154 :人間七七四年:2008/12/22(月) 19:15:48 ID:BMf0M5hj
西南戦でも延岡藩(旧縣)は医療チームまで含んだ大規模な部隊で薩摩側に参戦し、一時、延岡に拠った薩軍にも官民挙げて協力的だった。 

薩将野村は、延岡は南北を川に挟まれた丘陵地で眞に要害、拠って一戦するには最適の地なれど、延岡官民との友宜を思うと、とてもこの地を戦場にはできぬ…と北方に去った。

155 :人間七七四年:2008/12/25(木) 06:36:48 ID:DUCnbGcn
天正十五年(1587)五月十三日付で秀吉が弟の秀長に宛てた「条々」では、日向一国は大友宗麟にあたえ、日向国内で大隅国に近接した城に一郡をつけて伊東佑兵を入れて与力とし、また大隅国は一部を伊集院忠棟 

にあたえ、残りは土佐の長宗我部元親にあたえるとされていた。しかし、大友、長宗我部が辞退したためこの計画は実行されなかった。

156 :人間七七四年:2008/12/25(木) 12:02:41 ID:4qyVNh2F
大友の日向辞退はともかく
長宗我部の大隅辞退は当然だ罠 
隣国とは言え海を隔てて全く別の場所だし、薩摩藩時代になっても開発が進まなくて苦労した場所>大隅

157 :人間七七四年:2008/12/26(金) 04:45:03 ID:bKIwG8yG
長宗我部は戸次川で最愛の長男を討たれているから、戦功と別に秀吉が配慮したんだろう。

島津のその後の歴史に於ける功績をおもうと、もしこの両氏が秀吉の知行を受けていたら、明らかに日本史は後退した罠

158 :人間七七四年:2008/12/26(金) 23:41:22 ID:bKIwG8yG
>>154ぼしん戦争の経験者である野村は、越後や東北での一部官軍の乱暴狼藉(特に婦女子に対して)をみているから、尚更その思いはあったかもね… 

恋仲になった女郎や、いいなぁと思う婦人もいたかも知れん。 



159 :人間七七四年:2008/12/27(土) 04:06:51 ID:rPSUcDSk
>>141
大友に日向一国を与えようとしたのは、豊薩戦争で活躍した志賀親次と
佐伯惟定の2将への恩賞っていう面が強くて、この二人をで大友家から
切り離そうという下心があったんじゃないかと読んで断ったんじゃないかな?
既に立花宗茂を豊臣にやってるから、人材面で豊後一国でも治めるのが難しい
状況だったしね。

160 :人間七七四年:2008/12/28(日) 01:35:44 ID:YCCwH6X0
清武町の歴史資料館で、伊東氏の戦いについて特別展があるらしいよ。

161 :人間七七四年:2008/12/29(月) 07:53:24 ID:TfEvEHR6
あの薩摩島津と、長いこと一進一退してやりあったんだから伊東は結構ツオイお

162 :人間七七四年:2008/12/29(月) 09:02:18 ID:u32j8URW
伊東が島津と一進一退やれたのは
伊東も強かったんじゃなくて島津側の都合じゃない?
島津は長いこと本家分家一家一門で争って纏まり無かったしな
伊東氏と戦ったのももっぱら領地が近い一部の島津氏じゃね?
そこに付けいる隙があったから伊東氏は長年に渡って島津と戦えたんじゃないかと
でも日新斎が島津氏統一の道筋を作り、島津貴久が薩摩・大隅を統一し
子の義久の代になると国内はほぼ安定し戦国大名としての態勢が整った
そこへ伊東氏がのこのこ乗り込んで来て木崎原でアポーン!

163 :人間七七四年:2008/12/29(月) 12:38:17 ID:sF/AEMyR
伊東さんにとっては、相良さんとの連携失敗が悔やまれたろうね。

あの後、両家の交流はほぼ途絶えたしな。

164 :人間七七四年:2008/12/29(月) 12:51:53 ID:TfEvEHR6
とゆうかだねぇ、薩摩大隅を統一し、さらに発祥の地である日向諸県(都城)をおさえた島津に対して、伊東は県南から県央だけで、県北も延岡高千穂はおさえてなかったからね。 

なんにせよ 島津は強すぎ…


165 :人間七七四年:2008/12/29(月) 12:55:20 ID:TfEvEHR6
島津は恐らく、全国最強レベル。伊東もそんなに弱くはないよ。最強の島津がやごろうどん祭りで伊東との戦いを後世に伝えてるくらいだから。

166 :人間七七四年:2009/01/04(日) 11:48:23 ID:YudaK7DV
しかし伸びんなあ

167 :人間七七四年:2009/01/04(日) 17:06:51 ID:Qn7ltm+e
イトウだけに、クッキーやビスケットばっか食ってた印象があるなあ。

168 :人間七七四年:2009/01/04(日) 20:43:00 ID:HPh4zmfJ
ナウゲットチャンス!

169 :人間七七四年:2009/01/06(火) 23:50:11 ID:Ad1tF4fQ
ふぁ伊東ー イッパーツ!!

170 :人間七七四年:2009/01/08(木) 00:35:58 ID:OaX+7Kqz
>>169
ダイナマ伊藤のファ伊藤クラブを思い出した

171 :人間七七四年:2009/01/08(木) 19:21:01 ID:KPy628xK
コラーッ貴様ンコラーッ

172 :人間七七四年:2009/01/09(金) 23:40:47 ID:OQ4UkorQ
島津の侵攻前に夜逃げしたため、鎌倉時代まで一貫して領主の座にいた名家にありながら
伊東氏に関する文物が殆ど近世以降に限られるのは残念。
中世伊東氏に纏わるものは、佐土原に残る僅かな仏像と伊東塔位じゃないか?

173 :人間七七四年:2009/01/12(月) 07:36:32 ID:Zzn+YfMf
島津に略奪されてしまったのか?

174 :人間七七四年:2009/01/12(月) 14:22:36 ID:qGZVdrfp
略奪と言うより破壊されたんじゃないかなぁ

175 :人間七七四年:2009/01/12(月) 15:18:29 ID:cur6I7vn
又豊後落ちのルートを辿るハイキングが西都であるんじゃね。
かあちゃんの実家の近くだからたまに通るけど
女子供じゃ無理だろうね

176 :人間七七四年:2009/01/12(月) 17:52:39 ID:JTko/NAq
というより、賤ヶ岳戦で秀吉から賜った倶利伽羅の槍はどこ行ったのかね。
飫肥城行った時見当たらんかったが。

177 :人間七七四年:2009/01/12(月) 18:59:33 ID:Zzn+YfMf
なんで伊東が賤ヶ岳?

178 :人間七七四年:2009/01/12(月) 22:05:06 ID:qGZVdrfp
祐兵がそのころ秀吉の与力になってたから

正確に言うと
木崎原の戦い→伊東氏日向から追い出される→耳川の戦い→伊東氏九州にいられなくなる
→伊予に逃亡し極貧生活→知り合いの山伏がそのころ秀吉に仕えていた遠縁の伊東さんに連絡してくれる
→そのつてで祐兵秀吉に雇われる

179 :人間七七四年:2009/01/13(火) 04:50:35 ID:SkfP5W/h
てことは佑兵ちゃんは賤ヶ岳で戦ったのか?なんか嘘臭いぞ!ソースはなに?しかしホントなら数奇すぎるが…
山伏の人情、名門伊東の縁、いいねぇ。やっぱ伊東親子はドラマチックだな! 
しかしホントかな?



180 :人間七七四年:2009/01/13(火) 04:54:54 ID:SkfP5W/h
そういえば伊東はしかし、関ケ原では東軍についたな!全く恩知らずな!!  だがそれがいい…それでこそ戦国人だ。

181 :大貴:2009/01/13(火) 05:25:37 ID:C8bH+cwv
倶利伽羅の槍って 祐兵が山崎の合戦の戦功で 秀吉から賜ったのでは?



182 :人間七七四年:2009/01/13(火) 15:12:03 ID:SkfP5W/h
おいおい一体どっちなんだ?まぁどっちにしろドラマではある。しかし年代的にどうなんだ?明日調べてみる。しかし秀吉からもらったのは確かみたいだな。 
島津に追われ、大友を頼り、その大友もやばくなると、上方へ…そして、苦労して認められて、時の権力の大波に上手く乗る。彼は戦国のサーファーだ!

183 :人間七七四年:2009/01/13(火) 15:19:19 ID:SkfP5W/h
あの島津とまぁまぁやりあったくらいだから、武勇は上方でも十分通用しただろね!彼は実に上出来な息子だ!!しかし言葉も風俗も違う上方では苦労しただろう。帰ったときはホント嬉しかったろうね。

しかしなぜ都於郡じゃなかったのかな?飫肥地域も合わせた、都於郡十万石伊東家もみたかったね。 

薩摩藩の東路の抑えとして

184 :人間七七四年:2009/01/13(火) 17:12:58 ID:mzi/9LL5
>>182
「日向記」見たら山崎の合戦だったよ。

>>172
史料が残ってるだけマシだと思う。
義祐に乗っ取られた北原氏の史料なんてほぼ皆無だ。
伊東と島津と相良の史料から関連した文章を見つけるしかない。

185 :人間七七四年:2009/01/14(水) 04:40:50 ID:UzhQ9cLp
そうか!!山崎か!!賤ヶ岳よりいい舞台だな!しかしまだ秀吉の天下がわからない時期に…みるめがあったのかな?ともかく流浪脱出のためとにもかくにも頼ったのかなぁ? 

しかしあの天王山で武功をあげたなんてカッチョイー。

186 :人間七七四年:2009/01/15(木) 14:12:53 ID:sVYLIcAL
伊東と相良の以外な?共通点 ・いずれも静岡県域からの西遷御家人である。・いずれも守護職の経験がない。・いずれも島津領と隣接した国の南部を本拠地とした。いずれも自国の統一を果たさなかった。 

・少藩ながら幕末まで存続。

187 :人間七七四年:2009/01/15(木) 14:14:40 ID:sVYLIcAL
コーエーゲーでの評価はいずれも最低ランク。

188 :人間七七四年:2009/01/15(木) 22:28:35 ID:u6dO1r6W
>>187
伊東領も相良領もあっさり島津に奪われたからしょうがないね。
伊東は裏切りが相次いで当主が逃亡、相良は水俣城が取られたから
和睦して帰順という違いがあるけど。

189 :人間七七四年:2009/01/16(金) 04:29:29 ID:q8HS83BK
あっさり、ではないと思うよ!少なくとも伊東の場合… 島津の北進を支えられなかった点は共通。昔は相良で起こった犬童の乱に、伊東が救援派兵したりと、関係が深かったみたい。

しかし、大事な戦いで、水浴びしてやられるなんて…日向ボケかなORZ

190 :人間七七四年:2009/01/16(金) 19:02:34 ID:g24w86U8
木崎原での敗戦があったとはいえ、元々飫肥とるまでに2万の
動員兵力があったほどなのに、島津が薩摩と大隅の国人を
平らげてからは、伊東も相良もロクな抵抗をしてない。
その点ではあっさりと言っていいほどだと思うけど。
結局、伊東も相良も 肝付やら菱刈やらの反島津の国人衆頼みで
領国を維持してたと考えたら評価低くてもしょうがないと思う。

191 :人間七七四年:2009/01/18(日) 02:33:42 ID:R0C0TMBs
ドラマにするなら例の山伏「三峯」とやらを狂言回しにするのが面白かろ
独眼流のときの沢庵みたいに

192 :人間七七四年:2009/01/19(月) 09:57:55 ID:Qn/oXRBa
当初豊臣政府は、伊東と高橋元種を、正反対で配置するつもりだったらしい…しか佑兵の強い!希望で伊東は飫肥入りした。 

臼杵郡と宮崎郷の飛び地が高橋領の骨格だが、もし前記通りの配置の場合、伊東は、伊東は果たして高橋氏と同じく縣(延岡市域)に城を置いただろうか?或いは伊東と縁のある、門川や塩見等の三城地域に置いたのではないか?

伊東の臼杵入部の場合、「延岡」という美しい地名は少なくともこの地には、存在しなかっであろうこと…


193 :人間七七四年:2009/01/19(月) 10:04:35 ID:Qn/oXRBa
臼杵郡に入った伊東は、恐らく高橋氏と同様に当時、大友の遺臣を多数召し抱えて、半独立の気勢を示した高千穂の三田井を攻伐したに違いないが、その場合、名門伊東の足跡は日向国一円に普くしるされることになるわけでそれはそれで興味深い。

194 :人間七七四年:2009/01/19(月) 10:13:17 ID:Qn/oXRBa
伊東の足跡の北限は、延岡市南郊の笹目川…日向統一を目論む伊東は、ここで迎え討つ縣の土持勢に惨敗を喫し、高千穂の三田井氏の調停で和睦した。ここ一番に弱い感じはやはり否めない…

195 :人間七七四年:2009/01/20(火) 00:17:12 ID:BL9TuQCH
高橋領を拝領してたとして、肥後の加藤家と親しかったらやっぱり罪人を
押しつけられて、高橋家同様に改易になってた可能性もあるね。
そういう意味では飫肥でよかったかもしれんよ。

196 :195:2009/01/20(火) 00:33:12 ID:BL9TuQCH
Wikiに書いてあることを信じれば改易まではないか。

197 :人間七七四年:2009/01/21(水) 04:04:13 ID:5JuA3Dod
愛媛に住んでるが噂によれば俺は伊東氏の一族らしい。四国に逃れた時に居着いたのかな!?
叔父さんが世が世なら殿様の血筋だと言ってたらしいがそれは少し疑わしい??
何故なら再起した時九州に帰らなかったのか?
一応昔の墓には伊東になったり井東になったり伊藤になったり何でイトウの文字をちょこちょこ変えるのか俺自身も訳わからん?
代々先祖から伝わる刀があったそうだが第二次大戦で敗れた時に米軍に没収されるのを恐れて庄屋と庄屋の家の裏山に埋めたらしいがある時掘ったら刀がなかったと言う。
まあそう言う理由から伊東本家とは縁は遠いと思うが少しは親近感はあるね。
大河ドラマになれば見るよ!

198 :人間七七四年:2009/01/21(水) 05:11:01 ID:aKRCAY/S
伊東は藤原南家の大族で、発祥は伊豆の国(現静岡伊東市)鎌倉時代の西遷をはじめ各地に分散したので、あなたの話がほんとなら、遠い親戚になりましょう。 
一度日南の飫肥を旅行されてみては如何でしょう。 静岡と両方もよいかもですね!

199 :人間七七四年:2009/01/21(水) 06:19:11 ID:aKRCAY/S
>>195水間勘兵衛の件はいいがかり…に近い。何故なら高橋は関ケ原のとき西軍だったからね。高橋秋月は伏見城で家康の念児鳥居元忠を攻め殺してる…決戦当時は、関ケ原東方の大垣城に拠っていたが、西軍の敗報をきくと、熊谷氏ら、味方西軍諸将の首を取って、
これを土産に家康の赦しを得て、延岡、高鍋に帰っている…上手くたちまわったわけだが、高橋が西に属した事実は残った…

幕政初期、体制百年の安泰を計るため幾多の改易や取り潰しがあったわけだが、幕府はその対象を、豊臣系や、西軍系に求めた。その流れのなかで水間が加藤→高橋のラインに入った… 
伊東は豊臣系といえばいえるが、加藤福島のような出来星ではなく、鎌倉以来の名家であるうえ、東軍に属した…しかも幕府は名門好きときている。それに伊東は果たして水間を受け入れただろうか?!もし受け入れたとしても伊東は対象の外ではなかったか?



200 :人間七七四年:2009/01/21(水) 13:09:46 ID:5JuA3Dod
>>198さん。
ありがとうございます。
いっかきっと静岡と宮崎に訪れたいと思います。

201 :人間七七四年:2009/01/22(木) 13:30:01 ID:Q+tyZ0cv
マンション業は伊東家がはじまり







伊東マンショ、、

202 :人間七七四年:2009/01/24(土) 08:18:59 ID:0RXL5trw
>>201
近いかもなぁw
元々 伊東氏の家紋は庵(いおり)に木瓜だしなぁ

203 :人間七七四年:2009/01/26(月) 10:45:27 ID:WQFhAfy3
日向記読みたいけど度すればいい?

204 :人間七七四年:2009/01/26(月) 11:58:38 ID:rGGV7gxs
図書館に行って借りる
あるいは
宮崎県のHPにいって買う
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/somu/somu/bunsho/kenshi_02.html


205 :人間七七四年:2009/01/26(月) 15:32:55 ID:uIgVARKx
パンチョ伊東のご先祖さま

206 :人間七七四年:2009/01/27(火) 06:06:49 ID:LrMN3SCz
あなたが噛んだ 小指が痛い

207 :人間七七四年:2009/01/27(火) 06:17:50 ID:LrMN3SCz
>>200是非いらしてください!飫肥は武家屋敷の街並みもよく残っていて情緒あますよ!伊東氏所縁の鎧兜も見ることができますしね。晩酌は芋焼酎と飫肥天でどうぞ…(´・ω・`)

208 :人間七七四年:2009/01/28(水) 21:04:24 ID:xqAjpWHw
こういう記事があった。

http://mainichi.jp/seibu/news/20090125sog00m040008000c.html





209 :人間七七四年:2009/01/30(金) 10:58:04 ID:wwANDudC
今朝知ったが伊東の豊後落ちのとき、高千穂の三田井氏の居館に入り、大友から迎えがくるまで滞在したんだって…高千穂勢は重臣の甲斐宗運が肥後の御船城を攻略したり、縣土持と伊東の笹目川合戦を仲裁したりとなかなかの存在感だね

210 :人間七七四年:2009/01/30(金) 14:25:06 ID:vWCFylC3
>>207さん、ありがとう。
宮崎は良いとこ見たいですね!是非とも訪れたいと思います。


211 :人間七七四年:2009/01/30(金) 14:32:47 ID:AmOkKgir
飯干、甲斐、興梠、重黒木、早日渡、等々
余り他所ではお目に掛からない苗字が多い気がする。

そんな高千穂出身の俺。

212 :人間七七四年:2009/01/30(金) 20:17:57 ID:qzOY+os9
甲斐、興梠、馬の糞 っていう語があるぐらい多い苗字だからな〜
宮崎だと黒木が一番多い印象が

213 :人間七七四年:2009/01/30(金) 21:21:53 ID:WNPffDGg
ジョニー黒木

214 :人間七七四年:2009/01/31(土) 02:19:04 ID:T7o+9eIT
黒木っていうと、義祐が中国地方を回ってた時のお供が黒木宗右衛門って
名前だったよね。

島津方にも義弘付きの重臣で、木崎原合戦でも活躍した黒木播磨守ってのが
いるけど。

215 :人間七七四年:2009/01/31(土) 05:51:35 ID:qGuABck+
黒木と言うと筑後・八女の調党に黒木氏ていたな
最後の党首は大友勢に攻められ末娘に介錯頼んで切腹

216 :人間七七四年:2009/01/31(土) 08:27:04 ID:V4jNAIs2
日向門川方面にかなり多いね。くろぎとくろきのちがいはなに?

217 :人間七七四年:2009/01/31(土) 16:39:23 ID:PLcFk1jn
>>215
>最後の党首は大友勢に攻められ末娘に介錯頼んで切腹
その説は変わってるからいろんな雑誌や本で紹介されているが、
一般的には娘の手は借りずに普通に自害したとされているよ。
ちなみにその黒木氏そのものは自害した人の子供が柳川藩士になって現存してる。

余談でした。

218 :人間七七四年:2009/02/01(日) 03:29:50 ID:lFdwpZR0
黒木、日高、馬の糞 だろ
興梠なんてそんなにおらんぞ

219 :人間七七四年:2009/02/01(日) 04:03:37 ID:uhDRHpeg
なんでも馬の糞でいいよもう

甲斐、興梠、馬の糞
椎葉、那須、馬の糞
黒木、河野、馬の糞
日高、長友、馬の糞
鬼束、蛯原、馬の糞

220 :人間七七四年:2009/02/01(日) 10:02:46 ID:x0Y2Qijl
宮崎は馬の糞文化圏か
東京は伊勢屋 稲荷に 犬の糞で犬の糞文化圏だけど

221 :人間七七四年:2009/02/01(日) 12:17:05 ID:hcAict4P
甲斐興梠の方は県北も西臼杵のほうでいわれるみたいだね。 
黒木日高の方は日向市以南高鍋以北あたりじゃないの?

222 :人間七七四年:2009/02/01(日) 13:04:59 ID:GUv29leh
椎葉村って村民の何割ぐらいが椎葉姓なん?

223 :人間七七四年:2009/02/01(日) 13:26:50 ID:Y0VM7lnS
椎葉姓は県内に679軒あるそうな。


224 :人間七七四年:2009/02/01(日) 14:55:03 ID:hcAict4P
椎葉といえば「千人ざらえ」だねガクブル

225 :人間七七四年:2009/02/01(日) 15:11:06 ID:/JFG6hz+
>>213
ジョニーはくろ「き」だけど、くろ「ぎ」って濁るのが主流なんだっけ?

226 :人間七七四年:2009/02/01(日) 15:48:51 ID:hcAict4P
門川日向はくろぎじゃまいか?

227 :人間七七四年:2009/02/02(月) 07:41:29 ID:4W5oljXg
宮崎県の黒木氏はどうゆう系統の苗字なんですかね

228 :人間七七四年:2009/02/02(月) 13:44:36 ID:4W5oljXg
宮崎は河野も多いね。それも沿岸部に多いから、四国伊予あたりとの関係を感じる、愛媛に一番近い北浦にも多いしね…海賊系なのかな?

229 :人間七七四年:2009/02/02(月) 18:36:28 ID:7vH3iFz1
>>228
うちの婆ちゃん河埜だけど元は海賊だて言ってたよ。

230 :人間七七四年:2009/02/04(水) 11:07:43 ID:rCDmk8OO
県北?県南?

231 :229:2009/02/06(金) 02:23:55 ID:NTFIxY+M
(入る予定の)墓は高鍋の蚊口浜にあるけど
出はもっと北の方だったと思う。

232 :人間七七四年:2009/02/06(金) 22:28:57 ID:0Z6KEKe+
なるほど延岡の浦城あたりは戦国の頃は海賊の根拠地でなんとか千軒と称するくらい栄えてたらしいしね。ちなみに大将は松田氏、県北沿岸の気性の荒らさと、遠く関連している気がする。

233 :人間七七四年:2009/02/06(金) 22:35:59 ID:0Z6KEKe+
その浜も漁師町なの?!

234 :人間七七四年:2009/02/09(月) 15:02:35 ID:iWv/F2lX
根掘り葉掘り聞いてスマン しかし、宮崎市にやたらうどんやが多いのは四国からきた人達の影響っていうくらい昔昔から四国のひとはきてたんだろうね

235 :人間七七四年:2009/02/12(木) 00:37:10 ID:0bgRL9dv
早い段階で土持、三田井を平らげていれば…

236 :人間七七四年:2009/02/12(木) 01:00:56 ID:zKMdaJFZ
三田井はまだしも土持

237 :人間七七四年:2009/02/12(木) 01:12:49 ID:hSn7Va6X
薩摩大隅を統一した島津義久に対して日向を統一しきってないのが何とも。
国力差は当時どのくらいだろう。
50万石vs30万石くらいかな?

238 :人間七七四年:2009/02/12(木) 01:34:12 ID:jHpr2Eee
江戸末期に日向一国で実高44万石だったらしい。
当時は日向全体で30万石程度だったのと違うかね。
伊東支配下は20万石台とか予想。

239 :人間七七四年:2009/02/12(木) 03:16:50 ID:0bgRL9dv
その44万石は薩摩領の諸県郡を含めての数字かなぁ?

240 :人間七七四年:2009/02/12(木) 04:09:41 ID:Z4s2fNvP
高鍋藩は表高2万7000石だけど実際は7万8000石あったんやろ?

241 :人間七七四年:2009/02/12(木) 07:55:49 ID:0bgRL9dv
それは幕末じゃまいか?

242 :人間七七四年:2009/02/12(木) 11:38:50 ID:pJG8K0+b
島津の初期目標であるところの「三州統一」は
日向国の諸県郡のみを指してるの?

243 :人間七七四年:2009/02/12(木) 12:48:45 ID:ycNfVKWF
目標は日向国全部。
でも秀吉に負けて、諸県郡1個にされちゃった。

244 :人間七七四年:2009/02/12(木) 16:53:12 ID:0bgRL9dv
この場合の三州は無論、薩摩、大隅、日向の三国のこと。別称南三州。たしか義佑の全盛時代にどこかの寺の梵鐘に自らを称して日薩偶三州大守と銘じたこともあった。

245 :人間七七四年:2009/02/13(金) 00:07:56 ID:brCPlc/l
ああ、あったね
伊東義佑が全盛期に三州大守と自称してたの

246 :人間七七四年:2009/02/13(金) 07:44:27 ID:xwEUYkbS
しかし実現しなかったとはいえ、その覇気は買える!今の県民は、見習わんといかん!!

247 :人間七七四年:2009/02/13(金) 11:37:18 ID:+3rEKfPs
土持親成は地味だが割りと好きだ

248 :人間七七四年:2009/02/13(金) 12:20:45 ID:xwEUYkbS
縣と財部のつまり、延岡と高鍋の土持が早期になんらかの形で統合していれば、また成り行きも変わったかな?

249 :人間七七四年:2009/02/14(土) 22:20:08 ID:RN25MBi3
なんだかんだいって日向一国=宮崎県の日向国>>>>>完全に薩摩に同化した大隅じゃまいか

250 :人間七七四年:2009/02/15(日) 21:24:13 ID:MvOOpozo
南諸県郡は宮崎県に帰ってこなかったな…

251 :人間七七四年:2009/02/15(日) 21:50:00 ID:TYgNzcQb
明治初期の廃藩置県の混乱の中での妥協の結果
北諸県郡が宮崎県になったことで島津久光は長州に計られたと激怒していたそうな

252 :人間七七四年:2009/02/15(日) 21:53:06 ID:mnDXcplf
まあ元々、都城県という佐土原島津領だったわけだしね・・・。

253 :人間七七四年:2009/02/15(日) 22:22:27 ID:y/Dtrw0+
島津久光は徳川に代わって俺が征夷大将軍にと思ってたような人だから

254 :人間七七四年:2009/02/15(日) 23:49:43 ID:MvOOpozo
佐土原島津の石高に諸県十七万石はふくまれていないし、佐土原は美々津県だった件

255 :人間七七四年:2009/02/15(日) 23:50:41 ID:MvOOpozo
しかし急に南諸の人たちは宮崎県に戻りたくないんじゃまいか

256 :人間七七四年:2009/02/16(月) 00:48:00 ID:31jktu5e
北諸県も本心はいやだったようね
でも「王政復古!律令制のころの国境線に戻すのが正義!」
・・・という声に押されて何も言えなかったそうだ。

廃藩置県前後の宮崎県成立の辺りの描写は『宮崎県史』等を見ると当然ながら喜ばしく書かれているのだが
『えびの市史』など北諸県郡(旧薩摩藩領)の郷土史などを見ると「すごく違和感があった」と書いてあって苦笑。

257 :人間七七四年:2009/02/16(月) 01:47:17 ID:0HH2nmv2
↑成る程、貴重な話ありがとう。歴史的経緯からしても実にうなずける話だね…しかしよそを見ると肥前は長崎と佐賀に別れてるし、豊前も福岡と大分に分割されてる…やはり長州の策略があったのかな? 

しかし諸県地域のない宮崎県はやばいね、汗。 
その場合県庁も宮崎に置かれたかわからんね…地理的に見て美々津県のままだった可能性も高い。

しかし美々津は戦前は、神武天皇お船出の地として神聖視され全国の尋常小学校で唄歌として教えられたくらいだから寧ろそっちのほうがキャラ立ちしたかも…人口や総生産はともかく…
宮崎や延岡、富高は天然の都会だが県庁が置かれることで美々津周辺もおもわぬ発展を遂げたかも知れぬ。 
人口も減り生産も当然減るがその方が帰って妥当だったような気もする… 

あるいは薩摩、大隅は千二、三百年前日向国から別れたわけだから、この南三州で鹿児島県のままでもよかったのかも知れない。

只、「王政復古」の当時としては律令の昔に戻す云々も十分筋が通るよね


258 :人間七七四年:2009/02/16(月) 13:19:59 ID:Tt6y0uVL
まあ、文化圏的に都城にはちと同情してしまう
南諸県の子どもらは都城や小林、日南の高校に良く越境入学とかしてくるよね

259 :人間七七四年:2009/02/18(水) 00:22:36 ID:9UFHhWft
鹿児島、都城、美々津の三県体制のままもおもろいな。要は旧薩摩藩が東西にわかれ、他の日向諸藩及び天領が統合とゆうとゆう形だが…

260 :人間七七四年:2009/02/18(水) 00:32:14 ID:M3lltPcl
飫肥は無視?

261 :人間七七四年:2009/02/18(水) 07:39:30 ID:9UFHhWft
そうだった!飫肥も都城県だったね。あと高鍋藩の飛び地福島もか…しかし地政学的に見ても生産力でも、都城がふさわしいだろうね。それに当時は薩摩閥全盛だしね。都城からも桜田門外で井伊大老を斬った有村治左衛門や、 
兄の海江田武次、陸軍元帥にして「日本砲兵の父」上原勇作がでているね。上原元帥は当時陸軍薩摩閥のトップで時世によっては十分総理大臣もあり得たんだけど…なって欲しかった。

262 :人間七七四年:2009/03/05(木) 01:06:32 ID:bY8z6GSH
「日州一の槍突き」柚木丹後守!

263 :人間七七四年:2009/03/12(木) 16:11:46 ID:OTG6oECM
富高で喧嘩するな

264 :人間七七四年:2009/03/12(木) 16:12:34 ID:OTG6oECM
美々津で唄、唄うな

265 :人間七七四年:2009/03/12(木) 16:13:04 ID:OTG6oECM
高鍋で学云うな

266 :人間七七四年:2009/03/15(日) 02:31:19 ID:vFCm4sUo
チキン南蛮!

267 :人間七七四年:2009/03/18(水) 18:29:48 ID:AGX8GIy9
冷や汁

268 :人間七七四年:2009/04/04(土) 13:50:06 ID:g4BGw86v
宮崎県人って、郷土愛の中に歴史的な連帯感は薄いなと思ったら、
そういう事情があったのか。

北は歴史=神話だし、南西は島津に依存、真ん中の平野は小藩分立…
せいしょーこーや西郷丼のような、歴史的な連帯感を持つ歴史的人物が少ないんだよね。
昔宮崎の人に郷土の偉人を聞いたら、神武天皇と観光開発した人の名を挙げられたよ。
今だったら現知事がいるけどね。

269 :人間七七四年:2009/04/04(土) 15:23:19 ID:TryOowGK
>>268
上杉鷹山とかいるのにねぇ

270 :人間七七四年:2009/04/07(火) 00:10:54 ID:o3OBZ9N5
上杉鷹山は出生地というだけで宮崎に何かしたわけではないから
宮崎の偉人と呼ぶには弱くなっちゃうね。

あと、分立って豊臣政権以後からのように思えるけど、
それ以前に遡っても中央が伊東、北が土持、南西が北原と、結局は
分立してたりするんだよね。

271 :人間七七四年:2009/04/07(火) 20:22:35 ID:VFtOXTSY
>>269
>神武天皇と観光開発した人の名を挙げられたよ。
スゲー落差だ。

後者は誰だろうと探したが、この人で桶?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%88%87%E7%AB%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E

272 :新名遠江守:2009/04/17(金) 18:33:56 ID:mez9A4hQ
『若き衆の乱』について詳しい方いらっしゃいますか?

273 :人間七七四年:2009/04/17(金) 20:55:09 ID:xcDiab7s
というか神武天皇も宮崎に何かしたわけでもないけどな。
というか高天原が宮崎かどうかも定かじゃないけどな。
というか神武天皇が居たかどうかもs

274 :人間七七四年:2009/04/18(土) 10:46:08 ID:mP9WmhcB
>>272
ググっても出てこない。何のことか知ってるだけでもオセーテ

275 :新名遠江守:2009/04/18(土) 16:55:25 ID:dBVw4J2W
>>274

福永伊豆守祐炳に稲津氏、落合氏等が反発して弾圧された事件らしいのですが、稲津・落合両氏は何が不満だったのかなぁと思いまして(´・ω・`)

276 :人間七七四年:2009/04/18(土) 22:38:19 ID:mP9WmhcB
>>275
福永氏の項には以下のとおりですな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%B0%B8%E7%A5%90%E7%82%B3

277 :新名遠江守:2009/04/18(土) 23:00:26 ID:dBVw4J2W
という事は、稲津・落合両氏と米良氏は仲が悪かったんですね。

278 :人間七七四年:2009/05/15(金) 18:56:26 ID:PsW73rDZ
土持の子孫が通りますよっと。

279 :新名遠江守:2009/05/24(日) 11:52:36 ID:rGLCQGzY
山田宗昌と山田匡徳って同一人物なんですよね(´・ω・`)?

280 :人間七七四年:2009/05/26(火) 08:46:21 ID:N0VXQWqB
貴族院で天皇機関説の美濃部博士を、不忠者と一渇した爺さんも
いたな

281 :人間七七四年:2009/05/28(木) 22:37:09 ID:27O1nmoA
>>279
そんな時はWIKIですよ旦那。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%AE%97%E6%98%8C

282 :新名遠江守:2009/05/28(木) 22:53:50 ID:7hDAjuzW
>>281

いや、山田宗昌のWiki記事が以前からあったのに、この前新着記事で『山田匡徳』が出来てたんでおかしいなぁと思ったんですよ(´・ω・`)

やはり同一人物ですよね?

てことは『山田匡徳』の記事は誰かが勘違いして作ったんですな(´・ω・`)

283 :人間七七四年:2009/05/28(木) 22:58:14 ID:IbrflctA
海音寺潮五郎の武将列伝なんかよむと(大友宗麟伝あたり)、

「島津家は一時日向の伊東家に鹿児島近くまで押されていたが・・・」

と書いてるけど、そんなに優勢だった時期っていつだろう

鹿児島近くってのは伊東だけじゃなくて肝付・薬丸・菱刈・相州島津(&相良?)
の連合軍なんだろうけど

284 :人間七七四年:2009/05/29(金) 00:17:02 ID:289gSP1a
栗野や横川の北原領が、御家騒動のドタバタで伊東に降ったときかな。
その辺りはすぐ島津義弘に奪い取られたけど、
一時的に鹿児島に肉薄したとは言えるかもしれない

285 :人間七七四年:2009/05/29(金) 00:49:32 ID:P9E6QVrV
船から打ち捨てられた挙げ句追い剥ぎに全て持っていかれ死ぬなんてあんまりです(;ε;)

286 :人間七七四年:2009/05/29(金) 00:53:01 ID:T1djUQ7r
伊東さんが鹿児島に攻め入るチャンスがあったとすれば、
鹿児島中に群雄が割拠していたあの時。

北条や毛利が行った知謀計略を使えれば良かったのに。
義祐さんは正直すぎた。

287 :人間七七四年:2009/05/29(金) 18:26:00 ID:JgECr1ri
こないだ滝口康彦の本読んだら関ヶ原の時の伊藤さんの話があって吹いたw
まさか小説になっているとは

288 :人間七七四年:2009/05/30(土) 01:20:28 ID:jVnoLwVw
>>287
東軍に与するならば祐兵を斬る!とやってきた豊久を手玉に取ったあれっすか。

289 :人間七七四年:2009/05/30(土) 03:09:00 ID:TqZqa25c
>>286
飫肥攻略に時間かかり過ぎてるし、肝付、北原と連合しても北郷を
倒せないんだからチャンスはハナからなかったんじゃないかね
そもそも薩摩側に攻めればその途中にある北原と、薩摩を狙ってる相良、
菱刈、東郷、祁答院、入来院が、大隅側に攻めればやはり大隅を狙ってる
肝付、伊地知、禰寝が黙ってないと思われ。

あと北原領をせしめたのは十分、知謀計略の行使だと思う。
そのやり方を鑑みれば”正直すぎた”とはとても思えないんだが


290 :人間七七四年:2009/05/30(土) 18:33:00 ID:ZVfo52gD
日向記が手元にあられる方に質問ですが
天正五年の櫛間城攻めの記載を詳しくお教え願えませんでしょうか?
近くの図書館になくて困ってます。
あと天正二年の一月に伊東権守が肝付家の牛根城を島津が囲んだのをとこうと1万数千もの大軍で救援にいったのも事実ですか?
だとしたら、木崎原の損害も一年くらいで一応の復帰がなったということですよね?

291 :人間七七四年:2009/05/30(土) 19:14:53 ID:bH+YShtC
>>290
まず天正5年の「櫛間湊村破事」、意訳があるとイヤなのでまんま書き写します。

三位入道・祐兵主櫛間ヲ責破ルヘシトノ内談ニテ大勢ヲ催シ、天正五年丁丑
六月十八日ニ飫肥ヲ打立、南郷表ニ屯シテ十九日未明ニ櫛間ニサシ懸リ湊村ヲ
打破リ大勢ヲ討取テ放火ス、串間の兵夜中ヨリ貝ヲ吹続シカハ島津図書頭
十三里ノ道ヲ懸付ケ大勢ノ荒手ヲ以テ防戦間、伊東勢モ引退所ニ嶋津勢付シタフ、
河崎紀伊守兎角ヲ調ヘテ殿セシカ、指宿左近兵衛尉ト鑓ヲ合セ相戦ヒ紀伊守
尋常ニ討死也、伊地知治部左衛門尉、荒武又右衛門尉ト鑓ヲ合セテ戦死ス、
夫ヨリ海老原源二郎・後藤安芸守・井上和泉守・長友外記ナトヲ始メトシテ
大勢討死セリ、木脇越前守モ山陰ヲ差テ退レシカ村ハツレヨリ越前守例ノ
扇ノ印ヲ指出ス、敵モ是ニ少シ立留ル所ニ猶々敵競来故長倉伴八郎・上別府
狩野介彼両人殿シテ諸軍勢引退、其時ノ落書ニ
 人ノ名モ所ニヨリテ替リケリニクル紀伊守カカル紀伊守
薩摩方ニハ其日新納縫殿軍敗者ニテ紀伊守カ頸ヲ装束シ飫肥ヘ渡シ被申ケリ

それと天正2年の肝付への援軍は、禰寝の根占城には確かに援軍が出されてますが、
牛根城への援軍一万は派遣されていません。
派遣されるという話にはなっていましたが、その前に牛根城が開城しているためです。
実際に派遣するつもりだったのか、牛根城を囲む島津義久を牽制するつもりの
虚言だったのかは実際のところわかりません。


292 :人間七七四年:2009/05/30(土) 21:10:41 ID:ZVfo52gD
>>291
本当に有難うございます。助かりました。

293 :人間七七四年:2009/05/30(土) 21:12:37 ID:ZVfo52gD
あ、すみません、援軍一万の数は俗説ですか?それともなんらかの史料にあるのですか?

294 :新名遠江守:2009/05/30(土) 21:24:58 ID:aCRGd8ZM
『日向記』、勢いで買ったけど古文が出来ないし古文書学も学び始めなんで読めてません(^^;


295 :291:2009/05/30(土) 22:54:00 ID:bH+YShtC
>>293
どうなんでしょうね。なんで自分も一万という数を覚えてたのか不思議ですww
少なくとも「日向記」には牛根城の記述はあるものの、一万の兵どころか
牛根城に派兵するなんてことは書いてないですから、島津方か肝付方の
史料にでもあるんでしょうかね?

296 :人間七七四年:2009/05/31(日) 11:12:38 ID:MAQOAz/Z
>>295
私のも不確かな情報ですが、肝付側の話しでは志布志の先の高崎まで援軍が来てたらしいです。牛根城降伏後に引き返したようで・・
牛根城には島津軍主力がいるので一万の数は案外あっているのかもしれません。
でも伊東家って日向一国とは思えないほどの兵力ですよねwさすが三位様ですね。

297 :291:2009/05/31(日) 14:52:17 ID:BJWgrJbT
飫肥の戦いで最大2万を動員しているので不可能じゃないんでしょうけどね

ちなみに数はともかく牛根城への伊東の援軍の記述は島津の史料にはあるようです



298 :人間七七四年:2009/06/16(火) 13:52:21 ID:XeIRUTYg
志布志から新納を追った時点で大隅進出すべきだった

299 :人間七七四年:2009/06/17(水) 13:21:16 ID:jmNJJ+TV
いや、志布志から新納を追った軍の中に伊東家入ってないし

300 :人間七七四年:2009/06/20(土) 20:23:43 ID:8NnnmjOr
知らんうちに島津スレに抜かれておるではないか。癇癪起こる!

ちなみに伊東さんとこで良く出てくる2万だかの軍勢って誇張はないだろうか。
木崎原の時に都於郡から佐土原の武士は跡取りがいなくなったなんて話もあったが、
召集はその辺りだけで、数千がせいぜいじゃなかったろうか。
負けても力を大きく見せるために、わざと数字を誇張したんじゃなかろうか。

逆に島津さん(特に義弘)は、武功を誇張させるために自軍を小さく書いたりして。


301 :人間七七四年:2009/06/21(日) 01:27:16 ID:0AXHzMDH
誇張はないとは言えないけど、2万を動員したとされる飫肥の役に
参加した衆中の名前が明記されてないから確認できない
木崎原のときは死亡した将の名簿に何処の衆中の者かが書かれてるから
ある程度は推理できるんだけど。
色々計算してみたら木崎原の場合の3千人はほぼ妥当で、むしろ3千じゃ
少ないくらいだった。
ただこの場合は若手を多く動員していたり、飯野城の先の加久藤城を
攻撃する奇襲の色合いが見える戦いだから、一つの衆中からの動員数が
少なくされた可能性がある。
で、それを考慮に入れて、日向記に書かれてる城主の数を衆中と同じとして
自分なりに計算してみたりしたら、大体1万5千弱くらいになった。
無論、勝手な推量だから正確とは言い難いけど。

島津が自軍を小さく書いた可能性もある。
ただ武功を誇張して書くのを本人はやらないだろう。軍記物系は大概が
子孫に語って聞かせるために物語形式で書かれるから、当事者よりは
書き手(特に100年後の子孫とか)が誇張して書く場合が多い。
本人が日記や回顧録として書かれてるようなもので、あからさまな嘘は
書かないだろう。
だから、沖田畷に関しては上井覚兼日記にも寡兵で勝ったとかは書かれてないし
そういった日記の類はなさそうだから誇張の可能性はあると思うけど、
木崎原は義弘本人が書いた回顧録に「2、300人で破ったのは前代未聞」とある。
この回顧録、義弘自身が敗北したときの事も書いてたりするから、
実際に読んでるとこれが自分に都合よくだけ書かれたもののようには思われない。
それに、木崎原は他の合戦に比べて書かれてる史料が多いのだが、余程劇的な
勝ち方をしたからだと思われる。
伊東軍の誰々の死体が何処に転がってたかの図まで残ってるし。


302 :人間七七四年:2009/06/21(日) 21:50:40 ID:Rxbn1IsB
>>301
>島津が自軍を小さく書いた可能性もある
日本の場合、どこもそうでしょ。
自軍の軍勢は少なめ、敵軍の軍勢は大目に書く。>戦記や家記モノ

303 :人間七七四年:2009/06/22(月) 00:44:41 ID:3JDcRXjF
>>302
日本のみならず中国にも多くみられるらしいけどね
欧米の方も詳しくないから知らんけど、まあどこの国も似たり寄ったりなんだろう
一級史料とされる太田牛一の信長公記でさえ、自軍の動員数を多めに書いてたりするから

でも誇張が当たり前と思っていても、やっぱ真実か虚実かは調べないと見えてこないし
言い切れないじゃん
だからあくまで”可能性がある”と書いた


304 :人間七七四年:2009/08/02(日) 22:13:17 ID:Cxh9fuvA
保守

305 :人間七七四年:2009/08/17(月) 13:40:15 ID:YoRzpHsp
伊東氏ってもとは赤橋守時の遺臣?
曽我氏を含めた工藤一族は一番ごろごろしてるきがするけど

306 :人間七七四年:2009/08/17(月) 18:30:35 ID:2TY1uw+Z
初代祐時は曾我物語で顔出すくらいだからそんな後の人間じゃないでしょ

307 :人間七七四年:2009/08/17(月) 21:50:29 ID:YoRzpHsp
でも伊東氏の日向土着って南北朝時代の赤橋登子の代官としてでしょ

308 :人間七七四年:2009/09/24(木) 22:37:09 ID:H2DR0cGS
まあとにかくショボイ大名だわな
日向一国すら統一できない勢力が1万からの軍勢は無理
木崎原1回の大敗で再起不能ってwww
所詮、農家が大きくなった程度のもの


309 :人間七七四年:2009/09/24(木) 23:46:06 ID:WmakM3wS
西都の奥に長居しすぎて、世の中の動きに疎かったのだと思う。
将軍や朝廷に送る金があったら、殖産興業や軍事に金を使って、
外に進出すべきだった。
折角の侵攻作戦を、若武者だけに任せるとかありえん。

310 :人間七七四年:2009/09/25(金) 14:41:40 ID:eAIIOrl7
>>308
一応、飫肥役の際の最大動員数は二万人。
過剰に記録されてるにしても一万人以上の動員は可能だったと見るべきだ。
木崎原の大敗で再起不能になったのは重臣、城主クラス及びその子息らを
大量に戦死させてしまったこと、特に軍事の要だった伊東祐安を失ったのが
大きな痛手だった。
また、重臣を伊東家に繋ぎ止めていたのは、義祐が伊東家の最大の版図を
成し遂げたという部分だけだったんだろうな。
普段から不満があったから、島津に攻め込まれた際に雪崩を打つように
裏切りが続出したんだろうし。
まあだから、ショボイ大名というのは否定しない。
実際、長男が夭折してからの義祐の奢侈がなければ、あと義益の死後に
逆にしっかりしていたらここまで落ちぶれることもなかったろうしね。


311 :人間七七四年:2009/09/25(金) 21:24:00 ID:/Z6eCn4u
しかし、祐兵の伊東家再興は誉めて然るべき。
運も良かったけど。

312 :人間七七四年:2009/09/26(土) 06:41:26 ID:H+lwrWrn
祐兵「日向よ!私は帰ってきた!!」

313 :人間七七四年:2009/09/26(土) 14:57:13 ID:xq9aoeyh
祐兵「あれ?飫肥だけなの?」

314 :人間七七四年:2009/09/26(土) 21:37:06 ID:qs6JAujy
>>310
福永や野村は単なる冷遇ではなくて、尹祐の代からの経緯があるからね。

不満を持った勢力を前線に配置するなんてアホな話だと思うが、
佐土原から野尻に赴任したい奴なんて、いないだろうなぁ・・・
義祐はどうすれば良かったんだろう

315 :人間七七四年:2009/09/27(日) 03:19:43 ID:uKxaKprs
>>313
曾井と清武もプラスされてたじゃん

>>314
>>309の書き込みの通りじゃないか
官位を得るためとか、佐土原を京のように変えるためとかじゃなく
富国強兵と人心掌握に金と労力をつぎ込むべきだったんだと思う。

316 :人間七七四年:2009/09/28(月) 00:30:20 ID:VD67OBWH
1回の大敗ってのも軍勢3000ですよ?それで再起不能っておかしくない?
百歩譲って2万集めれる家がですよ?跡継ぎがいなくなったってのもどうもね
その時の親の世代とか分家とかでしのげるだろうに
もうすでに伊東家はなんらかの理由で疲弊していたとしか思えない

317 :人間七七四年:2009/09/28(月) 01:45:22 ID:56TLjUWL
無理して集めた20000のうち3000が死んだらそらもうつんでるわ

318 :人間七七四年:2009/09/28(月) 07:39:43 ID:2yhG7XE2
1万だろうと2万だろうと伊東軍も所詮寄せ集めだからな
寄せ集めは一旦崩れると脆いし、簡単に分裂しちゃうのは
設楽ヶ原の武田や関ヶ原の西軍諸侯が証明している

319 :人間七七四年:2009/09/28(月) 10:59:36 ID:qNd9Qt/E
義祐のやる気の問題もあるかもね
義益に家督を譲って隠居してたのに、義益が急死したために再び当主に
ならなきゃいけなくなった。だけど、もうやる気が起きなかったのか
政治の殆どを伊東帰雲斎に任せてしまってる節がある。

それと2万はやはり無理して集めたように思われるな。
島津・北郷連合軍に高原城を攻められた際、救うための軍を出したにも関わらず
恐れて一戦も行ってない。
敵は3万+1万を動員したとされているんだが、伊東は2万が動員できるなら
倍くらいの兵力差なら勝利した戦いなんて世の中に数多あるんだから
奇襲を用いるなどして戦えばいいようなものだが行ってないところをみると
急遽動員できなかったとか木崎原で失われたとかを考慮したとしても、
飫肥役の2万は無理してかき集めた感がある。
それに加え、奇襲を用いれるような軍事に長けた人物が失われてたんじゃ
ないかとも思われる。
まあ元々そんな戦法を用いれるほどの人物がいなかったのかも知れんけど。

320 :人間七七四年:2009/09/28(月) 22:05:50 ID:VD67OBWH
ハッタリだけで成長したんじゃね?おそらく10万石にも満たない伊東はよく頑張ったけどね
三国が隣り合うカクトウに島津が数百?しか守備兵いないってのも不思議だし
いよいよガチで戦うとなったときに3000が実はいっぱいいっぱいでしたってこと
相良はどっちでもよくて漁夫の利を得ようとしてただけだし


321 :人間七七四年:2009/09/28(月) 23:05:06 ID:qNd9Qt/E
ハッタリで成長はあると思う。
伊東の飫肥侵攻に堪りかねて島津貴久が足利家に和睦の調停を頼んだんだが、
伊東祐堯が賜ったという御行書を確認した幕府からの使いが、当時の将軍が
滅多に使わない言葉使いが多いから偽書の疑いがあると言ってる。
その御行書を本物と思い込んでる連中を煽って島津攻めを行ってたとすれば
正にハッタリだけで成長したと言えるんだよね。

ただ3千がいっぱいいっぱいというのはないと思う。
木崎原合戦のあと、島津義久が肝付氏の入船城を囲んでたのだが、
落とせないまま1年3ヶ月経った頃のこと、伊東の援軍1万が来ると聞いて、
ずっと城が降伏するのを待っていたものを、急遽城将の安楽兼寛と和議を
結んでこれを開城させてる。
実際、木崎原戦時点で3千がいっぱいいっぱいだったら、1万の援軍が
ハッタリだと思って義久もそんな動きはしないだろう。だからそれはないと思う。
義弘が養子に入ってた豊州家の飫肥城は、ずっと伊東の攻撃に晒されてたんだから
3千程度の兵力しかないならそういう情報は義久にも伝わるはずだし。

それに伊東の木崎原侵攻は夜襲だからね。
夜中のうちに鬼塚原抜けて真幸盆地に降りて妙見原に達して、それで尚且つ
飯野城に気づかれないようにその先の加久藤城を攻撃してるわけだから。
で、それをやろうとすると人吉街道という大きな街道は通れない。
人吉街道をそのまま進むと飯野城にブチ当たるコースになってる。
敵に悟られにくくするために大軍を擁することはしないだろうし。

322 :人間七七四年:2009/09/29(火) 16:37:04 ID:lFSgyzHL
鹿児島市と宮崎市
まさに鹿児島が栄えていて宮崎は衰退している
やっぱ国力がウンコだったんだろうね

323 :人間七七四年:2009/09/29(火) 18:21:46 ID:JC7x06yz
伊東はちょっと

324 :人間七七四年:2009/09/29(火) 22:51:54 ID:UwmnCfrU
西南戦争でも宮崎はババ掴んだ。
あれで没落した商人は多かった。

まー明治の開拓地も多かったがな>宮崎

325 :人間七七四年:2009/09/29(火) 23:46:17 ID:oy/gAn2z
宮崎地方は小藩ばかりで強いリーダーシップとれる藩が無かったからな
旧藩の経済力や政治力を利用してインフラや官製施設を優先的にもって来らせる事が出来なかったのがなぁ

326 :人間七七四年:2009/09/30(水) 00:20:04 ID:TW202v3k
宮崎出身だがちと言い訳させてもらう。宮崎は一見太平洋に面して明るい感じがするが実は山がちな地形であり最大の宮崎平野でさえ大した生産力もなく、さらには北に延岡平野、南西に都城盆地あり、

327 :人間七七四年:2009/09/30(水) 00:23:11 ID:TW202v3k
国は南北にひょろ長く、しっかりした生産力に裏打ちされた統一を可能とする突出した政治的軍事的勢力を生み出せなかった。

328 :人間七七四年:2009/09/30(水) 00:26:06 ID:TW202v3k
県央に伊東あれば県北に土持あり、更に西の方三田井あり、南西に北郷あり。

329 :人間七七四年:2009/09/30(水) 00:29:57 ID:TW202v3k
一国統一を果たさぬまま、周辺の強豪に確固撃破される形となった。同時代の信濃などに酷似する。

330 :人間七七四年:2009/09/30(水) 00:33:40 ID:LOCkS+9R
>>326-329
済みませんがその文量なら1レスにまとめて下さった方が読みやすいのですが

331 :人間七七四年:2009/09/30(水) 00:50:18 ID:TW202v3k
>>280菊地武夫さんだな。酒豪だったらしい。ちなみに肥後の菊地の直系。

332 :人間七七四年:2009/09/30(水) 01:00:36 ID:DStj4o0E
>>328
北原、新納、豊州島津は無視ですか そうですか

333 :人間七七四年:2009/09/30(水) 01:07:45 ID:TW202v3k
>>330すまない>>332県北出身なのでそのあたりのことはよくわからん。すまない。ともかく戦国時代の日向の不振は以上の要件が重なってのことだと思う。 
なんとなれば日向は日本開闢、神武大帝御東征の聖地である。

334 :人間七七四年:2009/09/30(水) 01:09:39 ID:TW202v3k
かかる土地の人間が道義的に素質的に劣ることなど断じてないのである。以上私はもう寝ます。。

335 :人間七七四年:2009/09/30(水) 01:53:22 ID:ew+NsTJm
道義的、素質的云々と日本開闢の土地であることは関係ないでしょ
日向を統一出来るほどの素質の持ち主も出なかったし
周囲の大敵に対して一致団結することも出来なかったんだから
むしろ神武が東征したから残りは滓しかいなかったんでねーの?
明治維新後の薩摩と似たよーなもんで

336 :人間七七四年:2009/09/30(水) 07:17:43 ID:0WJvEEC7
素質も何も、伊東落合野村稲津とみんな東国勢力なんだが

337 :人間七七四年:2009/09/30(水) 07:27:42 ID:4fL+uLCw
>>336
監督経験者が3人も混じってるな。

338 :人間七七四年:2009/09/30(水) 20:16:17 ID:ocwegWcR
>>337
ちょw

339 :人間七七四年:2009/10/01(木) 01:01:59 ID:Ily1ktvY
伊東を成長させることができなかった人民の頼りなさが原因だろうね
宮崎市ってのも昔からある街じゃないしな
近世無理やりつくった県庁所在地であり街並みなんだよ
自主性もないから東コクバルのような人物が台頭している

340 :人間七七四年:2009/10/01(木) 02:59:26 ID:pZPmw4yD
江戸時代になると伊東が領してたのは飫肥、曾井、清武のみだから
戦国時代の話だと思うんだが、そんな率先して殿様を成長させよう
なんて人民いたの?
いたとしても、義祐自身が人民に慕われるようなことをした記録が
ないじゃん
むしろ逆と思われる話ならあるけど
慕われるようなことしてたら城下に揶揄する落書の高札なんか
そんなに立つわけがない
そんなの、新しい殿様に変わることを望みこそすれ、人民が
成長させたいなんて思わんだろ

今の自主性はともかくとして、戦国期における人民の自主性に
関しては全く同意しかねる

341 :人間七七四年:2009/10/02(金) 21:57:15 ID:R4SXkChe
指導者になんとかしてほしい、という欲求がありながら
自らは犠牲にならない、あるいはなりたくないという個々の保身が強い地域柄
昔からそうなんだろうなと類推する


342 :人間七七四年:2009/10/02(金) 22:02:30 ID:SIfFK43u
佐土原や都於郡が島津に占領されたときは、府内のように人買いに売られていったのだろうか。


343 :人間七七四年:2009/10/02(金) 22:39:09 ID:pnjakpBB
それはないですぅ(ミズポ風

344 :人間七七四年:2009/10/03(土) 00:52:09 ID:yzTA/TJR
府内での人買いはまだ侵攻しただけの占領状態で
敵(大友)の戦力や労働力を低下させる意味あいもあった
それに対し佐土原辺りは島津の勢力下にほど近く
近隣に縁者もいるので永続的に支配下に置けるし
なにより物資や労働力の供給源として利用出来るので
佐土原・都於郡じゃ人買いは禁じたんじゃないかな?

345 :人間七七四年:2009/10/03(土) 10:10:56 ID:AzIUYPnt
何を血迷って日薩隅三州太守なんて名乗ったのか?
島津は守護として主張した面があるが伊東は馬鹿なだけ?
その程度の政治力なんだろうな

346 :人間七七四年:2009/10/05(月) 01:11:49 ID:xqEU9kp4
島津もお互い様だよ。守護権力が元から軽いんだから。
三国守護は島津の暴走を収めるために幕府がとりあえず与えた破格のもので、
最初から中身は伴ってないというか、むしろこんな半分名目だけの守護職を貰ったせいで
渋谷、伊東、土持、肝付といった連中から敵視されるようになったわけで。
三州太守のようなホラ話を吹く素地は元々出来てたとしか言いようがない。義祐があほなのは別にして…。

347 :人間七七四年:2009/10/05(月) 01:41:13 ID:vPKzMLac
元は名門の関東武士だからなあ>伊東
島津は藤原というが恐らく地侍だ、当家は格上だという意識は代々伝わってたろうよ。

348 :人間七七四年:2009/10/05(月) 10:03:14 ID:/BK54QCX
三国守護は鎌倉以来だろ

349 :人間七七四年:2009/10/05(月) 11:42:29 ID:rMcSlEFA
ヨシスケがアホなのは皆同意なんだね
かわいそうに

350 :人間七七四年:2009/10/07(水) 06:44:59 ID:zvxpSE6Q
判断材料を残しすぎてるんだよw
糾弾文とか自筆の文章とか

351 :人間七七四年:2009/10/10(土) 00:35:40 ID:/DcygCSF
伊東家で一番有名なのが遠縁のマンショだったりするのはかなしひ。

352 :人間七七四年:2009/10/11(日) 09:04:02 ID:P8IyUS6Y
義益が急死しなかったらだいぶかわってたのかな

そうでもないか

353 :人間七七四年:2009/10/11(日) 11:33:38 ID:Va6ApFP8
義益が死ななかったら義祐もああまで腑抜けにはならなかっただろうが、
所詮イフの話だからなー

354 :人間七七四年:2009/10/16(金) 09:34:34 ID:O8A7TKKk

臼杵郡4万2290石 11万5026人 0.37石
児湯郡5万9552石 5万1826人 1.15石
宮崎郡3万9982石 2万5357人 1.58石
那珂郡10万7494石 7万7977人 1.38石
諸県郡16万8073石 12万4969人 1.34石
日向国41万7391石 39万5155人 1.06石

石高は「旧高旧領」(慶応〜明治4年期)、人口は「日向地誌」(明治10年頃調査)、最右は一人当たり石高

日向国41万7391石 37万6527人 1.11石
薩摩国31万9146石 54万9440人 0.58石
大隅国26万2168石 25万6816人 1.02石
全国3043万5170石 3330万675人 0.91石
石高は「旧高旧領」(慶応〜明治4年期)、人口は明治5年

都城郷3万5800石(明治2年)
高千穂(現西臼杵郡)5682石(慶応3年)

当時の宮崎郡は旧宮崎市北西部と清武・田野の矮小な地域
那珂郡はそれ以外の旧宮崎郡と日南串間を足した地域
臼杵郡北半、都城郷を除く地域を戦国期伊東氏が支配
江戸期の都城郷は戦国期の北郷氏の所領とほぼ一致
臼杵郡北半を2万数千石(村ごとに調べれば分かるけど面倒)
と仮定すると伊東氏支配領域は石高ベースで日向国の85%ほどだったんでないかと推測
江戸末期と戦国時代の割合を同一視すればの話で無理があるけど

355 :人間七七四年:2009/10/16(金) 12:58:45 ID:zZJHk3fi
戦国期は日向全体で20万石ぐらいだろ?
都城〜えびのあたりまでで10万石
よって伊東家の所領は10万石程度である

356 :人間七七四年:2009/10/16(金) 13:08:49 ID:C5ydRUdN
ほーこれはおもろいな
突っ込みどころとしては
薩摩藩は石高を籾で計算
普通は玄米で計算する
薩摩藩領内の石高は6割程度に割り引く必要あり
薩摩藩は最高8公2民
領民は地獄だが500年も変わらん殿様なのである意味マンセー当然化
逃散も一揆もなかったわけではないが非常に起こしにくい巧妙な制度
飫肥藩への大規模な逃散もあったけど
基本的には藩主の別荘に石やウンコを投げ入れるくらいしかできんかったとさ

357 :人間七七四年:2009/10/16(金) 22:25:58 ID:Ifb2YO3h
>基本的には藩主の別荘に石やウンコを投げ入れるくらいしかできんかったとさ
すげえw

358 :人間七七四年:2009/10/17(土) 00:53:22 ID:cIjTxyiq
俺もそれどこかで聞いたことあるぞ
すごいな
打ち首モノか?

359 :人間七七四年:2009/10/22(木) 16:46:45 ID:kHJ8lsKk
今の宮崎市あたりは延岡藩飛地が多かったんですよね?
戦国時代関係ないけど。

360 :人間七七四年:2009/10/23(金) 00:24:50 ID:th1J5ZVQ
宮崎平野は小藩分立。
現市街地は、北は延岡藩飛び地。南は伊東。西と北は秋月、秋月の南隣は佐土原島津。
まとまりにくい県民性も、こうした歴史が反映しているとも言われる。
ソリーンに締めて貰った方が良かったのかもね。

361 :人間七七四年:2009/10/25(日) 11:37:41 ID:MpD24GMS
天領も結構あったな

362 :人間七七四年:2009/11/05(木) 13:23:19 ID:la5xEzaV
芦屋雁ノ助版、裸の大将。
母から言われた俺がまだ子供の頃の話を一昨日の「はねるのトびら」を見ながら「あんたは子供の頃、裸の大将が大好きだったよwww
親戚のオジサンを連れてまで裸の大将の博物館を観に行った記憶があるよwww」

吹いたwww

そこまで好きだったとは全く記憶に無い…。
でも大好きだった。

363 :人間七七四年:2009/11/05(木) 16:11:12 ID:zmF6xhDC
あっちの裸の大将はあの食糧難の時代におにぎり貰って放浪でき
るくらい人に好かれたんだろうが…
こっちの裸の大将は三位入道が百姓上がりごときに頭下げるかよ、
なんて感じだから扱いづらくて打ち棄てられたな。

364 :人間七七四年:2009/11/06(金) 21:43:16 ID:s+5PVkNn
「信長の野望」新作、米良さんがてげ強ぃーw

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取りに行ったけどなかった。次は一時間後に取りに行くです。
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